1.四条畷駅から四條畷神社へ
学研都市線・放出(はなてん)で乗り換えた区間快速の車窓から見える生駒山がどんどん後方に移動し、やがて視界から消えると間もなく四条畷(しじょうなわて)駅に到着する。工事中で塀に囲まれた駅を出て左へ進み、突き当たりを右折する。
道は東へ真っ直ぐに伸びていて、交差点の向こうに石鳥居が建つ。そこから四條畷神社の参道が始まる。
これは四條畷市の「100人のサンタクロース・プロジェクト」が設置しているサンタオブジェクトだ。シティープロモーションの一環としての活動だそうで、サンタマップを持ってサンタ捜しに出かけようという取り組みは面白い。ちなみにこれは「国旗サンタ」で、関西シェアハウス AZ kai HOUSE前に立っている。間もなく「飯盛山願かけ登山」の幟がはためく四條畷神社の鳥居に到着した。
境内への石段の途中に参拝者トイレがある。利用しようとしたが蜂が飛び回っていて退散する。神社に着いてその旨を話すと、親切に社務所のトイレにご案内いただいた。ありがとうございました。
四條畷神社には南北朝期の武将・楠正成の嫡男、正行(まさつら)が祀られている。山行の無事を願って参拝する。
境内には、楠木正成が兵庫出陣にあたって桜井の駅で11歳の正行に別れを告げた「桜井の別れ」の像がある。広い休憩所で準備を整える。
境内を右手に進むと飯盛山の登山道で「フラワーロード」の案内板がある。
2.登山口から飯盛山史跡の碑がある休憩所へ
少し上がった所が登山口分岐で、三方に山道が見える。「旧飯盛山登山道は法面崩壊の恐れがあり危険です。新道へお回り下さい。 四條畷市」の掲示版があり、左側の道へ入る。
行く手から大勢の中学生らしい子供たちが下りてくる。大きな声で挨拶しながら軽快な小走りだ。「金剛生駒国定公園」の案内板が立つ。四條畷市はその3分の2が北生駒山地で占められていて、隣接する交野市(かたのし)と共に金剛生駒国定公園になっている。
「飯盛山登山道」の標識があり、その先から階段の道が始まる。
10分足らずで御机神社(みつくえじんじゃ)分岐に着いた。
ここから急な階段が続いて息が上がる。途中で出会った下山中の女性から「ここは直登に近い階段コースなのでキツいが別に楽なコースがある」と聞くが、これは慰めにもならない。
そして、これが極めつけの激急階段で、最後の何歩かは鎖を握ってよじ登った。
登りきった所は絶景の展望ポイントだ。振り返るとこんな景色が広がっている。下山中の二人の女性が激急階段を下りようとしてためらっている。ここは梯子を下りるように、斜めになるか後ろ向きの方がいいかも!
さらに階段が続くが、この階段では右の脇道を歩く人を見つけて後を追ってみる。巻き道になっていて楽に階段の上に出ることができた。これは大発見だ。
次の階段もよく似ているので迷わず右の脇道へ。予想どおり迂回路で楽々進むことができた。こんな道を知っているかどうかで速度も疲労もまったく違ってくる。
飯盛山史跡の碑が建つ休憩所へ到着した。「飯盛城 拠りて 長慶 覇をきそう」のお触れ書きが立ち、ここから南へと飯盛城跡が広がっている。
この素晴らしい眺望! 広大な大阪方面の風景、中央にはメタリックな第二京阪道路が伸びる。六甲山系が背景をなし右遠くには北摂山系が霞む。
大パノラマの左端方向には、地上300m超の高層ビル「あべのハルカス」が見えている。写真右は、手前に特徴的な円形ドーム、その背後には梅田から中之島にかけての高層ビルが連なっている。
小休止していると男性がやって来て、「いや~、低い山だとなめていました。キツいですねぇ」。同感々々!
一方、軽装でこのコースを下りて行く人も多く、近場の人たちが気軽に楽しんでいる山であることがわかる。
3.飯盛山山頂へ
飯盛城跡には、敵の侵入を防ぐために、南北の尾根筋を断つように堀切が設けられている。御体塚郭の北側の深い堀切では、城巡りのグループの人たちがガイドの説明に聴き入っていた。少し登った位置から見下ろすと、この堀切がいかに深いかが実感できる。
真っ赤なカエデの向こうは二ノ丸の御体塚郭だ。磐座があり三好長慶の仮埋葬地とされ、南北を堀切で守られている。石柱は大正7年に建てられたもので「登山参百回記念」と刻まれている。
楠公寺と飯盛山山頂の分岐道標だ。周辺にはこんな石垣が残っている。下山道への分岐点でもあり、ここにも「旧飯盛山登山道は避けて新道を通るように」とのプレートが立てられている。山頂まで残すは300mだ。
階段を登ると山頂の展望台が見えてきた。
4.山頂風景
展望台の下は先客で満席状態。皆さんランチタイムだ。飯盛城の資料などが掲示されている。時刻は12時27分、気温は21℃で快適だ。
まずは展望台に上がって眺望をたのしむ。設置されている「大阪眺望図」と風景を一つひとつ確かめてみる。先の休憩所で見た円形ドームは「なみはやドーム」であることが分かった。淡路島や明石海峡大橋も記載されていたが、これらは見えなかった。
山頂は展望台南の小高い場所にある。そちらへ登ると「飯盛城址」の石碑が立っている。ここが本丸高櫓郭跡である。
中央に楠木正行の銅像があり、その脇にたくさんの「願い札」が掲げられた奉掲所がある。これを見て、四條畷神社の幟にあった「飯盛山願かけ登山」について気付くというお粗末。トホホ、授与所で願い札をいただいて来るべきであった。
展望台に戻り席空きを待って昼食にする。そのうち先ほどの城巡りの人たちがやってきて大賑わいになる。もう一度山頂へ登って、彼らが先に出発するのを待ちながら城址案内マップで行き先を確認する。
5.七曲りから慈眼寺方面へ下山
山頂から南の堀切に向かってロープをつたって下る。堀切と土橋の解説板がある。「堀切の中央部分を橋状に残して土橋とすることで、敵兵は一人ずつしか通行できなくなり勢いが削がれる。さらに土橋を切り崩せば敵の侵入を防ぐことができる」と記されている。何と考え尽くされた要塞であることか!
楠公寺への分岐があり、それを野崎観音側へ進むと NHKと FM大阪の送信所がある。
やがて千畳敷郭に出た。最大の面積を持つ郭で居住空間であったと考えられている。
こんな道標があり、ドングリの人形たちがくつろいでいる。
城の出口にあたる虎口に来た。ここが飯盛城の南端である。
杉むら峠を通過する。右に下り坂があり、野崎観音へ下りる「竹林コース」への小さな案内標識が立っている。
すぐ先に「七曲りコース」の案内標識がある。先ほどからかすかに聞こえていた音楽がしだいに大きくなる。どうやら青少年野外活動センターでやっているようで、ビートの効いたバンド演奏はピンク・レディーの曲。足取りが軽くなる。
リズムに乗って絵日傘峠を通過する。四條畷・野崎観音・青少年野外活動センターへの分岐である。
七曲りコースになって急な下り階段が続く。
やがて辻の新池を通過する。池に映える空の青がまぶしい。
曲がりくねった急坂を下って七曲り分岐に着いた。
山道が舗装道路に変わる。廃屋があり壁に「妙成寺」の銘板が見える。
少し先に野崎観音への道標があり、その脇に「野崎山三光滝 妙成寺」の標識が立っている。確認はできなかったが、三光滝は廃屋となった妙成寺の向こうにあるようだ。続いて、細い渓流に架かる木橋を渡る。
「せせらぎ」の標識があり、そこから階段を登って行くと「野崎観音・吊り橋」の分岐道標がある。
吊り橋の方へ進むと立派な案内標識。その先からしばらくは、やっと一人が通過できるほど狭い溝のような山道が続く。
しっかりとした吊り橋がある。渡る途中から左方向を見ると遠くに「あべのハルカス」が見える。
この道を逆に進むと「南尾根コース」に続いているのだ。やがて野崎観音(慈眼寺)への道標が現れた。
6.慈眼寺(野崎観音)に参拝して野崎駅へ
境内へ下りかかると石造りの九重層塔が建っている。永仁2年(1294)の作で北河内最古の層塔とのこと。下り進むと、ナ何と、フリフリ衣装の女の子が! コスプレの撮影をしているのに遭遇したのだった。「ごめんなさいヨッ!」と通りかかると、方々から「コンニチワー」の明るい声。ちょっとハッピーな気分に・・・。
そこを回り込むと穏やかな表情の慈母観音像。お隣の様子をどう感じていらっしゃるのやら・・・。
ところでこの慈眼寺(野崎観音)が、昭和初期に東海林太郎さんが歌った『野崎小唄』と関係があるとは驚きである。
野崎参りは 屋形船でまいろ
どこを向いても 菜の花ざかり
粋な日傘にゃ 蝶々もとまる
呼んで見ようか 土手の人
古くも懐かしい歌だが、この歌で野崎観音が全国に名を知られるようになったとのことである(野崎観音HPより)。
野崎観音は福聚山慈眼寺という禅宗のお寺。山行の無事を感謝して観音堂と本堂に参拝する。本堂の軒下には、安産祈願とお礼の「張り子の犬」がびっしり吊り下げられている。
野崎観音を後にして、商店街を真っ直ぐ西へ向かうと久作橋(きゅうさくばし)。
久作橋を渡った左がゴールの JR野崎駅だ。
当たり前のことながら、山歩きの難易度は標高だけでは決められない。河内飯盛山は低山ではあるが、今回のコースに限れば決して楽々ハイキングの山ではなかった。しかし、堀切や七曲りなど変化に富んだ山道、広大な城跡と天下を俯瞰できるような眺望、よく整備された環境など魅力的な山である。遠隔地であることから何度も訪れることはできないが、何度も足を運んでみたくなる山でもある。