名 称

たかとりやま

所在地

奈良県高市郡高取町

標 高

584m

山行日

2015年9月5日

天 候

晴れ時々曇り

同行者

なし

アクセス

近鉄南大阪吉野線・壺阪山駅で下車

マップ

このマップは、国土地理院の電子国土Webシステムから提供されたものを使用しています。

コース概要

壺阪山駅出発 11:10武家屋敷 11:32家老屋敷 11:37砂防公園 12:00宗泉寺分岐 12:15
七曲り 12:21(途中約10分の休憩)一升坂 12:48猿石 12:58~13:00高取城跡 13:23
高取山山頂到着(昼食) 13:32~14:15八幡神社 14:32「阿羅漢」立て札 14:58
県道119号合流 15:06壺阪山駅帰着 16:15

1.壺阪山駅~土佐街道~家老屋敷

 近鉄壺阪山駅に降り立つと、正面に「観光とくすりの町」の駅前看板。トラックが見える国道を横断して100mばかり進むと土佐街道に出る。道標にしたがって「高取城跡」方面へと右折する。

 土佐の由来は、6世紀の始め、大和朝廷の都造りの労役のために土佐から召し出された人たちが、任務を終えた後も帰郷がかなわず、この地に住み着き地名として残したことにあるらしい(案内板「土佐由来」より要約)。虫籠窓・連子格子の町家が石畳の道沿いに続き、城下町の風情を醸し出している。このことから別名「土佐街道れんじの道」とも呼ばれている。

 さすが薬の町だけあって、石畳のところどころに薬草タイルが埋め込まれている。

 薬草タイルを辿りながら進むと、右に観光案内所の夢創館(むそうかん)、その裏手には「くすり資料館」がある。すぐ先に、1824年創業の老舗酒造元「金剛力酒造」があり、玄関には案山子が立っていた。

 薬草タイルが「砂防公園 1.3km」に変わると札の辻跡である。その先に「右観音院道・是ヨリ十六丁」の道標が立ち、ここで土佐街道は右へ折れて、その先の壺阪街道へと延びる。ここはアスファルト舗装の道へと直進する。

 写真左は高取児童公園の入口にある「松ノ門」である。高取城の廃城にともない、城内にあったものが土佐小学校の校門として移築された。しかしその後に火災で焼失し、材木部分だけを復元したものである。もとの門は、この上に瓦屋根が葺かれていた。少し行くと長屋門をそのまま残す武家屋敷がある。築後約300年が経過している。

 5分ほど進むと、なまこ壁が美しい植村家長屋門が建つ。県文化財に指定されている。文政9年(1826年)の建立で、東西に各4室ある部屋に高取藩仕えの下級武士をかかえた、城代家老の役宅であった。現在は旧藩主植村氏の住居になっている(以上、案内板より要約)。

 車道に出て横断する。青空に秋色が揺れている。

2.上子島集落~宗泉寺分岐

 サルスベリ(百日紅)が夏を惜しむように咲いている。ミカンとイチジク、栗もたわわに実をつけて、この辺りはすっかり秋景色だ。

 上子島(かみこしま)集落を行くと、途中で幼い二人を連れた山歩き家族と出会う。末っ子の男の子が弾けるような笑顔で、元気に挨拶を返してくれた。

 水車小屋が見えてきた。昔あったものを整備したものらしい。ちょっと立ち寄りたくなる水車茶屋「橙仙花」の案内標識。

 静かなせせらぎにはシオカラトンボとオハグロトンボが羽を休めている。

 城跡まで2,300mの道標を見て坂道を上っていると、サイクリングウェアとヘルメットに身を固めた二人連れが通り過ぎる。坂を登り切った左は砂防公園である。

 坂の上で先の二人が休憩している。素敵な熟年夫婦はこの近くにお住まいで、共にサイクリングの日常を楽しんでいるとのこと。今頃の季節はハイカーが少ないので、高取城跡をゆっくり楽しむには絶好、頑張ってくださいと激励される。自分たちの力ではここまでが限界です、と素敵なロードバイクで引き返して行った。ここには公衆トイレが設置されている。

 小さな花が傘状に集まって花火のようなシシウドや、ピンクとも薄紫とも見えるチダケサシの花が道の辺を飾る。

 砂防公園から高取城までの道を大手道という。まだこの辺りは緩やかで、林間を行き橋を渡って進む。大手道の一帯は薬草の宝庫だそうである。

 ヤブミョウガが細い茎を真っ直ぐに伸ばして、美しい白い花をつけている。

 宝泉寺分岐に着いた。右折すると、高取藩主植村氏の菩提寺である宝泉寺に至る。2~3分前、背後に気配を感じて振り返ると黒塗りの乗用車が停まり、会釈して宝泉寺へ向かった。ここまで車が入れるのかと驚いた。

3.七曲り~猿石~大手門跡

 宝泉寺分岐を過ぎるといよいよ山道らしくなる。細くなった道を進み、丸太の階段を登って行く。

 道はよく整備されている。しっかりとした橋を渡ると、苔むした「史跡高取城址」の標石が立つ。この標石は城跡まであちこちに立ってナビゲートしてくれる。

 急に傾斜が増した丸太道を登り進むと、点々とヤマザクラが植林されているのに気づく。こんな取り組みには心から敬意を表したい。ひときわ大きい「史跡 高取城址」の碑が建っていた

 七曲りの始まりだ。敵の侵入を遮るための曲がりくねった急坂で、ここに木や竹を切って防御したとされるが、なかなか辛抱を強いられる坂ではある。途中、ケータイのアンテナが3本立っている(通話可能状態である)ことがわかり、電話連絡のため小休止をとる。ほんの一休みのつもりが10分近くになってしまった。

 荒くなった路面を注意深く進んで橋を渡る。橋の向こうの路肩は、谷側に石垣が組まれている。

 いよいよ一升坂だ。石材などの運搬で、急坂にへばりそうになった者たちに、米一升を加給して激励したのが名前の由来とか。直線状の急坂が待ちかまえている。

 「本丸 760m」の道標からすぐ左に、猿石が現れた。ここは大手道と飛鳥方面の分岐でもある。左折すると明日香村栢森(かやのもり)に至る。この猿石は高取城を建築の際、明日香村平田で掘り出され石垣材として運ぶ途中でここに置かれたらしい(高取町教育委員会・説明板「猿石」より)。何ともホッとするお顔立ち、よくここに居てくれました。

 二の門跡に到着した。その先から、十数人のグループがこちらへやって来る。が、その姿が次々に消えてゆく。

 この道標で合点がいった。右側に国見櫓跡への道があり、一行はそちらへ入り込んで行ったのだった。国見櫓跡からの展望が絶景だとは後で知った。この準備不足で、二上山から大和平野にかけての一大パノラマを見逃すことになってしまった。少し行くと、補修の金網に覆われた立派な石垣が現れる。

 本丸まで残すは360mばかり。さらに進むと壺阪寺方面への分岐道標と出合う。帰路はここから壺阪寺へ向かうことになる。

 迫力のある石垣と楓の巨木。その先が大手門跡である。

4.高取城跡・高取山山頂風景

 大手門を過ぎると広場があり、中央に東屋が建っている。二の丸から見る太鼓櫓・新櫓の石垣は高取城跡の象徴でもある。

 高取城本丸跡の石垣は風景を圧倒する。かつての城の姿が偲ばれて、おもわず『荒城の月』を口ずさんでしまった。むかし聴いたバリトン歌手、立川清人さんの声がそこここに響く。脳溢血であまりに早く逝ってしまった彼の旋律を反芻する。

     土井晩翠作詞・瀧廉太郎作曲『荒城の月』
       春高樓の 花の宴     巡る盃 影さして
       千代の松が枝 分け出でし 昔の光 今いずこ

       秋陣営の 霜の色     鳴き行く雁の 数見せて
       植うる剣に 照り沿いし  昔の光 今いずこ

       今荒城の 夜半の月    変わらぬ光 誰がためぞ
       垣に殘るは ただ葛    松に歌うは ただ嵐

       天上影は 変わらねど   栄枯は移る 世の姿
       映さんとてか 今も尚   ああ荒城の 夜半の月

 城下から見る山上の白漆喰塗りの天守や櫓の見事さは、「巽(たつみ)高取 雪かとみれば 雪でござらぬ 土佐の城」と謡われた。今はそれを望むべくもないが、その姿を偲ぶ碑が建つ。

 傍らの草むらには、整腸生薬に有効なゲンノショウコが紅紫の花をつけ、隣にはヤブハギが米粒ほどの淡紅色の花飾り。

 高取山山頂は天守閣跡にある。登って山頂標識と三等三角点を確認する。

 山頂から西に、雄大な金剛山と葛城山を望む(ズームで寄ってみた)。

 下方の石垣を眺め、足元を覗き込んでみる。傾いだ楓が、紅葉の季節には見事な演出をするに違いない。

 本丸跡は広い。南面の石垣に立つと、遠く東には近畿のマッターホルンと呼ばれる高見山がそびえている。

 南には大台ヶ原・大峰山系が広がり、その手前に吉野山を望むことができる。雄大な風景を見ながら、この一帯を歩きなれた同年代の男性と話し込む。テントを背負って高見山から尾根づたいに大峰山系へと歩くことなど、ダイナミックな山歩きの話は尽きない。

 石垣の中央に設置されている方位盤を見ながら、大峰山系にズームで近づいてみる。

 長い台形の石垣の左半分は新櫓跡、右半分は太鼓櫓跡である。本丸跡を離れて、下山の前に太鼓櫓・新櫓の石垣をふり返る。

5.八幡神社~阿羅漢~県道出合

 再び壺阪寺方面への分岐に戻ってきた。左折して壺阪寺方面へと下りにかかる。

 この階段を下り、細い山道をどんどん下って行く。

 分岐から10分ほどで八幡神社への道標と出合う。直進方向の道標は壺阪寺を指しているが、ここは八幡神社へと進む。長い急な石段が延びている。

 石段の途中には倒木があり、ザックを外してくぐり抜けなければならなかった。境内手前の石段も崩れており、このルートでの参拝者は少ないようだ。社の石段の手前から参拝する。

 境内左の急坂を下りて行く。しばらく進むと落ち葉が積もった舗装道に出た。

 少し先に壺阪寺への道標があり、再び細い山道に入り林間を行く。

 「五百羅漢 1.0km・壺阪寺1.5km」の道標を見て、さらに細い道へと入って行く。

 次の道標で決定的なミスをやってしまう。「五百羅漢遊歩道を経て壺坂寺」「五百羅漢を経て壺坂寺」の指標が重なるように設置されている。本来は遊歩道方面へ進むべきところを、手前の指標だけで即断して左に進んだ。

 その先には路肩が崩れかけて「キケン」表示の部分があり、それを乗り越えて「阿羅漢」の標識に辿り着いた。小さな絵図には「左下へ下りますと曼荼羅があり、左上にのぼりますと、いろいろな羅漢さんに会えます」と記されていた。が、これを読むまでもなく移動を開始。右側に整然と並ぶ石仏に会釈して、壺阪寺方面へと下りて行く。

 梵字と仏様を刻んだ石柱があり、遠くに葛城山と二上山が浮かんでいる。

 二上山にズームで寄ると、奈良盆地を一望することができた。さらに下りると舗装道に合流した。

 道標に「壺阪寺 0.5km」とある。一方、いま下りてきた方向に「五百羅漢0.2km」との記載。ここで初めてルートを間違えたらしいことに気づく。しかし時間的に後戻りは厳しく、そのまま舗装道を行くことにする。

6.壺阪寺を見ながら壺阪山駅へ

 道路から右側の木の間越しに、壺阪寺の八角堂が見えてきた。行く手遠くには奈良盆地と二上山が見えている。

 次に大石堂、続いて大釈迦如来石像と多宝塔などが見えてきた。

 こんな場所に出て、自分が県道に居るらしいことに気づく。こうなると、もはや壺阪寺に立ち寄ることは難しく、壺阪寺前バス停にも簡単には行き着けないことが分かってくる。後はひたすら歩くだけだ。

 時折り車が往き来する県道を、ただただ下って行く。展望がきかない山間に道が続くばかりで、現在位置を把握しようがない。家並みが見える場所に出てようやくひと安心だ。

 舗装道に降り立ち歩くこと33分、やっと近づいた民家の壁に壺阪山駅への道標を発見。落ち着いた通りが現れてホッとする。

 エンジの布製シェードに白抜きで「茶寮 花大和」の文字。これで記憶が繋がった。この薬膳料理で有名な店の位置により、壺阪寺側から札の辻跡へ向かう土佐街道を歩いていることが判った。続いて連子格子の漢方薬の店が現れる。

 土佐街道れんじの道に戻り、夢創館の近くまで帰ってきた。

 駅前の公園がにぎやかそうなので近づくと、何と、家畜も家畜を世話する人たちも、テント前にいる人たちもすべて案山子だった。10月1日から始まる「第7回 町家のかかし巡り」に向けた準備が進んでいるようだ。

 かくして壺阪山駅に無事帰着、実によく歩いたと思う。それにしても、壺阪寺を参拝できなかったのは残念だった。子供のころ、浪曲好きの父親が広沢虎造ファンで、「壷坂霊験記」がしょっちゅう流れていた。その壺阪寺に立ち寄れなかった。五百羅漢と対面できなかったのも大失敗。それに、通りをもっとゆっくり、店に立ち寄りながら歩きたかったし・・・・。
 いろんな思いを抱えて電車に揺られながら、「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~、ころは六月なかの頃~、夏とはいえど片田舎ぁ~、木立の森もいと涼しぃ~~」