岡山駅から伯備線で26分、清音駅で下車して井原鉄道井原線「神辺(かんなべ)行き」に乗り換える。約25分で三谷駅に到着する。
1.吉備大臣宮、吉備真備公園から登山口へ
駅から北へ真っ直ぐに歩く。2~3分で突き当たりのカーブミラーを右折して東へ進む。この細い道は旧山陽道である。
井原線の高架をくぐり抜けると国道486号線が近接する。しばらく進むと左に自然石の灯籠が立っている。その右には「吉備公累代墓」と「五角柱地神」の石碑。後ろには三成八十八ヶ所霊場の10番の石仏が祀られている。
国道と交差するあたりに「吉備大臣宮 250m」の標識。左に常夜燈と万人講供養の石仏がある。
吉備大臣宮と吉備真備公園の案内板が見えると、その手前に筆塚が現れた。矢掛町出身の書家である田中塊堂の日本芸術院賞受賞の記念碑が建つ。「筆塚の由来」を刻んだ碑があり、「故人云ふ 心正しければ則ち筆正し」の文。末尾に昭和38年4月 文学博士 塊堂 田中英市記とある
吉備大臣宮は遣唐使として唐に渡った吉備真備公を祀る神社である。学問に秀でていた真備公にあやかろうと、多くの受験生が参拝するとのこと。
吉備大臣宮に参拝して西へ移動する。一帯は吉備真備公園で「日本の歴史公園百選」に選ばれている。隣の中国風の建物は、吉備真備公館があったと伝えられるのを記念した休憩所「館址亭(かんしてい)」。館址亭は「美味しいうどん屋」として有名なようだ。当日は休業で(営業時間 11:00~14:00 定休日:不定休の貼り紙あり)、ガッカリ顔のグループがチラホラ。
満開の藤棚から望む吉備真備公の像。手前にあるモダンアートのような木は枝垂槐(しだれえんじゅ)。マメ科の落葉高木で、ゴールデンウィーク頃に葉をつけ、7~8月にマメの花のような薄クリーム色の花を咲かせる。中国名で竜爪槐(りゅうのつめえんじゅ)と言うそうだが頷ける。
高台に立つ高さ6.45mの吉備真備公の堂々としたお姿。手前にある日時計はぴったり合っている。像の近くに「吉備大臣入唐絵詞」があり、遣唐使の様子を巻物風に描いたブロンズのレリーフと共に、長文の解説が石版に刻まれて当時を偲ばせる。
西隣の果樹園で作業中の女性に登山口への道を尋ねる。南の道まで出て右にとり西へ直進して、突き当たりをまた右折して、と丁寧に説明していただいた。
右折したところに、先ほどの女性がわざわざ先回りしていて行く手を再確認、大変お世話になりました。その道を直進すると、2~3分で右側に「鷲峯山棒澤寺磨崖仏街道」と手書きの案内板が吊されている。「棒」は「捧」のことだろう。「通行止」となっているが、右側への進入禁止のようなのでそのまま前進する。
すぐ先の左側には「鷲峰山」の立て札と杖らしきものがある。舗装道をどんどん直進する。
道端にウマノアシガタの黄金色、コバノミツバツツジも満開、最高の山行日和だ。
5分ほどで右側に矢印の道標。丸太に手書きで「鷲峰山・棒澤寺」の板が取り付けられ、天辺に木製の矢印が山道を指している。やっと舗装道路から解放されると山道に踏み入る。だが、何だか既視感のようなものが頭をかすめる。
2.ヤブコギで蛇、そして仁王門へ
鉄棒に小さな標識が結わえ付けられている。「150m先・右折」とある。やっぱり山道は歩きやすく足が軽い。
左側が沢になっている。水量は少ないが流れは確かで、小さな三段の滝が形成されている。しかし、しだいに前方の道が不明瞭になってくる。
ここでハッとする。先の感じは既視感ではなく、以前の下見先遣隊で歩いたルートと同じであることに気づいた。道が消えて行く先はヤブと倒木に閉ざされている。引き返して別のルートを探すか、もしかすると舗装道路をそのまま直進したらよかったのかも知れない、などと水分補給をしながら考える。単独行動には危険がつきものだが、いかようにも動ける自由がある。注意深くヤブを漕いでダメなら引き返そうと、手袋を着用してストックを調整する。ヤブコギ開始だ。
しかし前進は楽ではない。10数分経ったあたりで倒木に行く手を遮られ、もぐり込もうとしていた時に、太さが2cmほどの1mをはるかに越えるヘビが曲がりくねりながら横切った。危害を加える蛇でないことは判ったが、これには驚いた。それに、その先が湿地になっているようで、湿地にはマムシが生息していることが多いので迂回行動をとることにした。
それからどのように進んだのかは判然としない。左側にあった沢に近づかないように、高度を下げないように、木をつかみ草を握って、雑木をかき分けながら前進した。そのうち、右下に四角いものがチラリ。たぶん錆びた標識板の裏側だったのではなかろうか。山道らしいのが見え、ここでやっとカメラのシャッターを切る。
急な傾斜をズリズリと不明な場所に飛び出した。ヤブコギ開始から45分が経過している。時刻は12時13分、計画では捧澤寺に差しかかっているはずで、大幅に遅れてしまった。
「整備された、歩きやすい道はどこなのじゃあ・・・・」と独りごちながら先を急ぐ。路肩に5~6本の杭、続く砂防指定地のコンクリート杭で計画通りの山道であることを確信する。
ああ、これこそ歩きやすい道だ。ガマズミが花をつけている。
急坂の左側が大きく崩落している。トラロープを張っているが、ここはブリをつけてヨイショ! 上部はロープに沿ってソーッと回り込む。
平坦な道に出て丸太を並べた橋を渡る。
路幅が狭くなったあたりで空に送電線が見えてきた。地図の送電線路と対比して仁王門に近づいたことがわかる。
その先を左に回ると仁王門が見えてきた。
3.捧澤寺(ほうたくじ)から磨崖仏へ
東三成地区には三成八十八ヶ所がある。その霊場85番の菩薩立像と弘法大師の坐像が並び、その向こうに捧澤寺の仁王門が建つ。屋根は修復されてきれいだが、壁の一部と内部は損傷している。鎌倉後期作の仁王像は矢掛町指定重要文化財で、現在は県立博物館にあるそうだ。
仁王門をくぐって真っ直ぐに進む。右手に送電鉄塔が見えている。正面寄りに小さく見える鉄塔の下に山頂三角点があるはずだ。
傾斜の緩い石段を登って行くと、右側に捧澤寺が見えてきた。
捧澤寺の石門は矢掛町指定の重要文化財で、幅・高さは共に約2メートル。石門の両端に、空海の著書「秘蔵宝鑰」にある文言がみごとに彫られている(門脇の解説板『捧澤寺石門』矢掛町教育委員会から)。裏から眺めると実に堅牢な構造になっていることがわかる。
捧澤寺は鎌倉時代にできた寺で、高野山真言宗別格本山という檀家のない修行の寺。盛時には備中南部有数の山上伽藍であったが、昭和32年の大火でほとんど焼失してしまい、現在残っているのは太子堂と庫裏のみである。写真右は太子堂で、しばらく前の記録写真では半壊状態だったが、元の瓦屋根は銅板で葺き替えられ外壁も修復されている。
境内には法界地蔵、やや離れて千手観世音菩薩坐像と弘法大師坐像。
大きな庫裏は崩壊しかかっている。何とも空しく侘しいありさまだ。
「鷲峰山磨崖仏」の道標にしたがって石段を登ると、宝篋印塔(ほうきょういんとう)がある。鎌倉時代の作と推定され、高さ1.55mの花崗岩製で矢掛町指定の重要文化財(矢掛町教育委員会の解説板から)。
三成八十八ヶ所83番の弘法大師坐像があり、「鷲峰山」のガイドプレートを見て進む。
坂道を登り階段を踏みしめると82番の千手観世音菩薩立像。
捧澤寺から3~4分で展望のよい大岩に出る。
モヤがかかっていて遠景は今ひとつだ。遙照山をズームで寄ると山頂の電波塔が見える。
少し西に振って竹林寺山の天文台にズームイン! このあたりには巨岩が堆積していて、その一角に磨崖仏がある。
ずっと会いたいと思っていた毘沙門天の磨崖仏とついに対面。矢掛町教育委員会の解説板によると、約4m四方の自然石に等身大で彫られているとのこと。実際に目にすると、想像していたよりもずっと立体的で明瞭で美しい。甲冑に身を固め、右手に宝棒、左手に宝塔を捧げ持つ姿は今にも岩から抜け出しそうだ。製作は比較的新しく、解説板には安永6年(1777年)浅野又三郎によって奉納されたとある。
4.鷲峰山三角点から仁王門へ戻って塵無池へ
毘沙門天像に拝顔を得てパワーアップ。計画より1時間も遅れているので山頂へと急ぐ。
坂をひと登りすると、送電線保守案内板に山頂への方位が貼り付けられている。
山頂の送電鉄塔に到着した。山頂三角点は茂みの奥にある。
標高398.1mの鷲峰山北峰三角点にタッチ。三等三角点だ。
山頂はほとんど展望が効かないのですぐに移動し、392mピークで昼食をとることにした。雑木に囲まれる深閑とした一角で辺りを窺いながら食べていると、谷側の林に標石らしきものを発見。何か判らないが、これを撮して下山を始める。
行程の遅れを取り戻すために、下山は送電線路に沿った東側のルートを選ぶ。5分ほどでひとつ下の送電鉄塔付近を通過する。
歩きやすい道だが、あちこちにマウンテンバイクのタイヤらしい跡形がついている。
仁王門への分岐に着いて、仁王門側へ登り返す。
石橋を渡るとすぐに仁王門へ着いた。ここまでで30分ほど時間短縮できた。
仁王門の手前を左にとって塵無池を目指す。門の左側の岩には七丁の丁石地蔵があった。歩き出して間もなく、左側に「三谷駅」への道標らしきものが木に結ばれていた。
これは墓石だろうか。すぐそばに墓地らしい一角があるのだが荒れ果てている。石の径は20cmほどなので、卵塔と呼ばれる墓石にしては小さすぎると思われるのだが。
第38番の弘法大師坐像を中心に三体の地蔵が並んでいる。
この道はマウンテンバイクの乗り入れ道でもあるようだ。あちこちの路面にタイヤ跡がある。十七丁の丁石地蔵が立っている。
塵無池に差しかかって木立越しに池が垣間見える。コバノミツバツツジが満開だ。
広い美しい池だ。池の南端に「塵無池 竣功記念碑」があり「弁財天」の石碑が並んでいる。余談ながら、弁財天の元は弁才天で水の女神であることから、古くより溜池や治水の神として祀られている。弁才天といえば琵琶を奏でる姿が思い浮かぶのだが、芸術・学問などを司る神が日本ではしだいに財宝神として性格づけられるようになり、「才」が「財」に転じたのは面白い。
5.圀勝寺(こくしょうじ)方面へ下山
ここから路面は舗装に変わる。計画より15分遅れまで時間を取り戻した。圀勝寺へ向かって下山を始めると2~3分で十三丁の丁石に出合う。
続いて出合った十二丁の丁石地蔵は下半分がなく、石の上に置かれている。
左に砂防堤を見ながら落葉の積んだ道を下りる。
雑木林を抜けて周囲が急に明るくなる。井原線の高架橋が見えてきた。遙照山の電波塔もはっきり見分けられる。
橋を渡って下り進むと圀勝寺への上り坂がある。
圀勝寺が「大椿の寺」として有名なことは、ここを訪れて初めて知った。白壁の塀の外に椿の花がこぼれ落ちて真紅の絨毯を織りなしている。いったいどうなっているのかと驚きながら境内に向かうと、「新型コロナウィルス感染拡大防止のため 椿まつりイベント中止 椿は自由にご鑑賞下さい(椿会)」の掲示。
境内には、樹齢350年を越えるといわれる大椿が八重の花をつけている(町指定天然記念物)。樹高は8mもあり、3月下旬から4月上旬に見頃になるそうだ。毎年4月の第2日曜日を中心に「つばき祭り」を開いてきたが、新型コロナウィルス感染症の影響で3年連続して中止になっているとのこと。はからずも好機に訪れることができたわけで、素晴らしい光景を目にすることができた。咲き始めた白とオレンジのツツジも美しい。
一角に宝篋印塔(ほうきょういんとう)。弘法大師千百五十年御遠忌記念として昭和59年(1984年)に建立された修行大師像がある。
立派な本堂の正面に、圀勝寺の山号「神遊山」を掲げる。宗派は高野山真言宗で本尊は地蔵菩薩。天平勝宝8年(756年)、吉備真備の開基と伝えられている。
また今回も横門から入り込んで正面の山門から出ることに・・・・。「吉備公ゆかりの寺 神遊山圀勝寺」の石柱が建つ。
圀勝寺を後にして三谷駅へ向かう。下山で時間を稼いでほぼ予定通りの時刻に帰着する。
行程を振り返れば、遣唐使の時代を感じた吉備真備公園、ハードなヤブコギと蛇との遭遇、仁王門から捧澤寺境内の淋しい廃寺風景、念願の毘沙門天磨崖仏との対面、そして圀勝寺での花の歓迎。山中では誰にも出会えなかったが、何とも彩りに満ちた山行であった。