1.吉備津駅~吉備津神社~藤原成親供養塔
JR桃太郎線・吉備津駅前の集まりは50人を超えているだろうか。地図と資料をもらって目を通す。今までの吉備中山めぐりは備前一宮駅から吉備津彦神社を参拝して入山していたが、今回は吉備津神社から逆に歩く。それにしても思っていたより行動範囲が広く、累積高低差が大きそうだ。
300回記念例会とコースの説明を受けて、快晴の下を吉備津神社へ歩く。手水舎に近づくと大賑わいだ。しばらく待って手水を使う。
階段をゆっくり上りながら体調を確かめる。足腰の状態はノープロブレムだ。比翼入母屋造の社殿が美しい。七五三詣でで可愛い子供たちの姿、取り巻くいい顔の家族があちこちに溢れている。
静かな一角に集まって、吉備の中山と吉備津神社にまつわるレクチャーを受ける。古くは島だった現在の児島半島と本土との間が、多数の島が散在する吉備の穴海と呼ばれていたことは知られているが、奈良時代以前にはこの地が吉備の穴海の西海峡部に位置する「吉備の津」として要港であり、シーレーンとしての要衝だったそうである。
また「吉備津彦」とは、倭国の成立が大和勢力によるとする大和中心史観において、大和の対抗勢力であった吉備の有力氏族を国家体制の一員に組み込む際に、天皇家の系譜とのつながりを持たせるために考え出された人格ではないかという説はとても興味深い。
当初は吉備津彦命を祀るこぢんまりとしていた神社が、平安時代に吉備津宮と称され、やがて官社となって社殿の整備が進み、幾度か火災を被りながらも再建がはかられたとのこと。現在の檜皮葺比翼入母屋造(ひわだぶきひよくいりもやづくり)の本拝殿は実に美しい。境内には、樹齢600年と言われる神木のイチョウが色づいている。
吉備津神社を下りて、「吉備の中山のみち」を北東に進む。7~8分行くと「鼻ぐり塚」の案内板に出合い右折する。
牛の鼻ぐり(鼻輪)が積み上げられた塚を右に見て直進すると坂道になり、左に「史跡・高麗寺仁王門跡」の石柱が立つ。
すぐ脇に石製の十三重塔が建っている。そもそも十三重塔は藤原成親の墓所にあってその後荒廃したとのことだが、それとの関係はわからない。ここから道は階段状になり急勾配になる。
間もなく藤原成親供養塔に到着する。後白河上皇に仕えていた大納言藤原成親(1138~1177)は、京都東山鹿ヶ谷(ししがたに)で平家追討の密議を謀るが敗れて平清盛に捕らえられる。備前国に配流後ここ有木の別所に幽閉されて最期をとげる。墓所には石製の十三重塔が建立されたがその後荒廃し、現在の九重塔は明治時代に修復されたものとのこと。中央には石枠に囲まれて藤原成親供養石塔が建つ。
2.石舟古墳~中山茶臼山古墳~岡山県古代吉備文化財センター
成親供養塔から細い急坂を登って中国自然歩道に合流し、「八丈岩へ 0.1km、鏡岩 0.3km」の道標に出合う。右に「ダイボーの足跡」を見ながら進み、その先の「石舟古墳」の道標にしたがって、急な坂をひたすら下りてゆく。
石舟古墳は古墳時代終末期(7世紀初め)につくられた横穴式石室古墳である。円墳で径15m、高さは2m。写真の奥の方に羨道(えんどう)があるので、内部を観察するために行列で待つ。
こうして2~3人づつ入り込む。中には播磨国の竜山石をくり抜いた石棺がある。石棺の蓋石が縦に半分に割られ、ひとつが備前一宮駅のホームに置かれているそうである。
急坂を登り返して再び中国自然歩道に合流し、穴観音にたどり着く。会長から「穴観音の向こうの土地の起伏をよく見て」と声がかかる。御陵があるこの一帯は宮内庁管轄なので、雑木等の手入れが行き届いていて、中山茶臼山古墳の形状を明瞭に観察できる。
御陵に向かい柵に沿って進むと「国境石」がある。ここが備前国と備中国の境界である。
孝霊天皇の御子の大吉備津日子命の陵墓とされる前方後円墳。全長105m、後円部径68m、高さ11mで、前方部の先端が撥形に開いている。かつては吉備の穴海に面していた臨海性大型前方後円墳である。
時刻は12時30分、御陵南の広場の大勢の家族連れから「こんにちは!」の声。『岡山市プレーパーク普及事業「子どもたちの遊ぶ声が聞こえる地域を目指して」in 吉備の中山』が開催中だ。
岡山県古代吉備文化財センターへと下りる。センター前の広場で昼食をとり見学する。このセンターは、岡山県の埋蔵文化財の保護・保存の拠点で、発掘調査、出土品の整理、研究、収蔵、展示などを行っている。岡山県内で発掘された陶棺、特殊器台、銅鐸などが常設展示されている。
3.矢藤治山墳丘墓~尾上車山古墳~尾上八幡宮遺跡~神力寺跡~備前一宮駅
要所要所での解説を聴き、観察しながらの道程にとても充実した時間の流れを感じている。久々の山歩きに石舟古墳への下りと登りはかなりキツかったが、皆さんは元気そのもの。改めて、古代吉備国を語る会の健脚揃いに敬服。
午後の部は車道歩きからスタート。黒住教本部の前を通過する。
「庚申堂(こうしんどう)帝釈天」の分岐道標から細道に入り込む。続いて「矢藤治山(やとうじやま)古墳」の道標で左折する。
矢藤治山古墳の手前には詳細な解説と写真を配した説明板がある。全長35.5m、後円部径23.5m、高さ3mの竪穴式前方後円墳で前方部の先端は撥形に開いている。床面から中国製の方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)1面、大型硬玉勾玉1点、ガラス小玉50個、鉄斧、木棺の痕跡などが出土している。さらに墳丘から特殊壷、特殊器台なども出土している。しかし、表土は雑草に覆われていて形状は判然としない。
車道へ戻って、尾上車山古墳へと細道へ踏み入る。
階段状の墳丘が見えてきた。それを巻くように上って行く。道辺に淡いライトブルーのホタルブクロが咲いている。
尾上車山(おのうえくるまやま)古墳は全長138.5m、後円部径96m、高さ11mの前方後円墳で、ギリギリ山古墳とも呼ばれている。後円部はフラットで広く、そこから見下ろす前方部は長い長方形に見える。東には操山と遠くに熊山を望むことができる。茶臼山古墳と同様に、当時は山麓まで吉備の穴海が迫っていた臨海性大型前方後円墳である。
尾上車山古墳から北に下りると再び車道と交わり、岡電バス「尾上南」バス停付近に出た。途中から民家の間を縫って北に進むと石鳥居が見えてきた。
尾上八幡宮に着いた。小高い境内に上がると拝殿には干し藁がずらり。注連縄づくりの準備かと思われる。
拝殿の左側には天神社があり、その台石は播磨の竜山石でつくられた組み立て式石棺の底石である。これは矢藤治山墳丘墓の尾根筋の山麓から出土したものと伝えられている。右の写真は境内から東の眺望で、右端に遠く岡山ドームが見える。
民家を縫う車道を北へ進み、右に西山小学校が見えるあたりを左寄りに進む。やがて吉備津彦神社の石鳥居をくぐって左へたどると、お馴染みの吉備の中山登山口に着く。
最後に神力寺跡を訪ねる。登山口を少し進んだ右側がその跡地らしい。白鳳期にこの一帯には平地伽藍の白鳳寺院があり、備前吉備津宮(現吉備津彦神社)を中心に神力寺と神宮寺の伽藍が配置され一大聖地をなしていたそうだ。
折しも今日11月10日は、天皇皇后両陛下のパレード「祝賀御列の儀」が行われている。奉祝幕を掲げた吉備津彦神社前を通って石鳥居をくぐる。
無事に備前一宮駅へ帰着した。プラットホームには、半分に割られた石舟古墳の石棺の蓋石が置かれている。予定の視察ポイント9カ所すべてに足を運んで、予定の列車の時刻に20分ばかり余裕を残しての到着。やはりこの会の皆さんの体力は凄い。充実した資料とレクチャーに改めて感謝です!