1.砂川公園~ビジターセンター
服部駅前で今回の資料をいただいて出発。岡山自動車道の高架下を抜けて砂川公園の方へ向かう。畑地には今年初めてのヒバリの声。空に駆け上がりながらピーチクチーチクと賑やかだ。右手山頂に鬼ノ城の西門が見えている。
30分ほどで砂川公園の管理事務所付近を通過する。この数日で厳寒から初夏へと気温が上昇して暖かく、ここで衣服調整などの準備で小休止する。
右側に川が流れ豊かな自然が広がる。家族連れの子供たちが楽しそうに走り回っている。キャンプ場の炊事棟脇では若者がテント張りを準備中。あちこちにテントが設営されている。
出発からほぼ40分、鬼ノ城と「砂川の森」の分岐に出合って右側へ。左へ進むと、砂川の森を通り経山(きょうやま)を越えて「鬼の釜」の手前に出ることができる。すぐ先の橋に、「鬼ノ城駐車場まであと 3000m」とある。
左手に黒尾地区の赤坂池が見えてきた。間もなく「鬼ノ城駐車場まであと2000m」の案内板。休日の好天とあって車が多い。歩行の列はすっかり伸びて最後尾について行く。頻繁に車が通るので、そのたびに声をかけ合って身を右に寄せてやり過ごす。我々以外にこの道を歩いて登る人はいないようだ。
舗装道路を登るのはきつい。以前に経山を越えて登ったが、それよりも足腰にかかる負担が大きいように感じる。脈拍数が増え息が上がる。十三番のお地蔵さんに出会って会釈をする。「あと1500m」の案内板が「まだ1500mも」に見える。
左に「経山城跡」の道標が立つ。経山を経由して登るとここに出てくる。ビジターセンターまでもうひと息だ。
緩やかなカーブの左手に大きなピンクのかたまり。離れていてはっきりしないが、花の付き方から早咲きの桜だろうか。
残すところ500mになった。新山集落に差しかかり、左に「鬼の釜」が現れる。鬼ノ城に住んでいた温羅(うら)という伝説の鬼が生け贄を茹でた釜とされるが、鎌倉時代の僧重源が衆生施浴のために作った湯釜ではないかとも言われている。
ビジターセンターに到着した。服部駅から約1時間40分が経過している。普通車30台の駐車場は満杯状態、道中で車が多かったのも頷ける。
2.角楼・西門~南門跡
小休止して鬼ノ城めぐりへ出発する。先着でここから参加する人たちも合流して西門方面に移動する。まだ舗装道路が続いている。
右に西門、その左手前に角楼が張り出している。まずは角楼へ。
角楼からの展望は素晴らしいのだが、花粉の飛散が多いためか風景が霞んでいる。城を構えるならここにこそと思われる眺望で、空気が澄んでいれば、眼下の総社市や岡山市方面の平野はもとより、瀬戸内海を往来する船まで見張ることができる。さらに讃岐の古代山城まで見通せるのだが残念だ。ここで30分ばかり会長の出宮徳尚先生のレクチャーを受ける。
わが国の古代山城は「神籠石(こうごいし)系山城」「朝鮮式山城」「奈良時代山城」に三分類されること。朝鮮式山城は、663年に朝鮮半島で起きた白村江の戦いで、百済と同盟を結んだ日本は唐・新羅連合軍に大敗し、唐軍の懲罰的日本侵攻を恐れた天智朝廷が対馬から難波津にいたる海路の要衝に緊急築城したものであり、これらは『日本書紀』などに記録として残っている。一方、鬼ノ城が属する神籠石系山城は史書に記述がなく、築城の主体者や時期についての見解が分かれているそうである。現在では発掘調査によって、7世紀後半に築かれた軍事施設で、朝鮮式山城の補完を担ったものと見られている。
鬼ノ城復元のシンボル的な建造物である西門は壮大である。四カ所の城門のうち唯一全体が復元されている。間口は12.3m、門の外には石が敷き詰められている。他にも通路や斜面に板石が敷き詰められた場所が多く、日本の古代山城では鬼ノ城にしかない珍しいものとのこと。雨水の処理にも効果的だろうと思われる。
神籠石状列石を観察するために下りて行く。下りた地点から西門方面を振り返る。高さが5~7mもある土塁と石塁・石垣が組み合わされている。鬼ノ城の城壁は基本的には土塁であるが、基礎に列石を排した上に土を突き固めている。また外周の要衝は石垣で築城しているのが特徴のようだ。
神籠石(こうごいし)の由来はよくわからないが、列石遺構のことを表しているのだろう。長さ11.6mに渡って土塁の基礎に列石を据えている。
上に上がってまた下りて第二水門の下へやって来た。いつもなら通り過ぎてしまう場所にこんなものがあったとは驚いた。案内板によると、頑丈な石積みの上に土を少しずつ突き固めて徐々に高くしていく「版築土塁」が特徴らしい。
左側には第一水門が見えている。写真右は第二水門の上部にある排水溝だ。
第三水門の上に立つと下は切り立った崖である。ここからの見晴らしも抜群だが遠景は霞んでいる。
南門跡に着いた。間口は12.3mで西門と同じ規模である。
3.千手観音磨崖仏の広場~東門跡~屏風折れの石垣~北門跡を経てビジターセンターへ
南門跡から第三水門を見て東に張り出した広場に出た。眼下に鬼ノ城ゴルフ倶楽部が見える。時刻は13時11分、ここで昼食をとることになった。
一角に磨崖仏を刻んだ岩がある。千手観音像だ。
鬼ノ城の型式を専門用語では「頂部鉢巻き型」と言うらしい。城壁が山頂をぐるりと鉢巻きのように巡っているためだろうか。その周囲は2,800mで、周回に要する時間は2時間程度とされる。この地点ではまだ半分にも達していない。
昼食は短時間で切り上げて13時40分に出発する。行く手に屏風折れの石垣が見えている。まるで独立した要塞のようで迫力がある。
第四水門跡を通る。写真右は水門の出口部分。
東門跡に着いた。西門や南門よりやや小さくて間口は3.3m。他の城門が角柱を使っているのに対して、ここだけは丸柱である。東門から麓(奥坂方面)へ向けて山道があり、これは当時の登城道と重複している可能性が高いと言われている。
屏風折れの石垣に向かって進むとその手前に第五水門跡があり、背後に谷側をせき止めるような「土手状遺構」がある。屏風折れの石垣の上部から振り返る。この巨石の量と積み上げ方は凄い。谷側は絶壁になっている。
傍らに鬼ノ城の案内板が立ち「千数百年前に温羅(うら)と呼ばれる一族が朝鮮から来て居住し、付近の城塁は当時のなごりといわれている。またこの一帯は、平安時代に新山、岩屋とともに山上仏教が栄え、大規模な伽藍が多数立ち並んだ西方教化の中心地であった」という意味の記載がある。
並んで「岡山懸十五景地」の碑が建っている(写真は裏側)。西へ進むと城郭北側に防衛壁、長さ49mの土塁が北側からの侵入を防いでいる。
まもなく北門跡に到着した。間口は4mで、ここから北へ下りることができる。犬墓山と岩屋方面へ通じている。
時刻はすでに14時半を過ぎているので、このまま引き返して新山へ出かけるのかと思っていたら、さらに城郭の中央部に向かうことになった。このエリアへ入るのは初めてだ。
最初に着いたのは倉庫群の跡地で、5棟の礎石が発見されている。礎石の配置や礎石に残された丸柱のサイズから、穀物や武器など重量物を収めた高床式の倉庫であったと考えられている。次の広場には2棟の礎石があり、これは建物の構造や須恵器・硯などの出土から管理棟跡と考えられている。これらの礎石建物について、会長からかなりマニアックで面白い解説があったのだが、これは省略。
鬼ノ城山山頂に立つとすでに15時を過ぎていてタイムアウト。新山廃寺跡を訪ねるには時間が足らず、ここで解散となった。ビジターセンターへ戻って下山準備をする。
4.ビジターセンターから往路を服部駅へ
ビジターセンターを後にして5分、前方を下山していた二人組の女性が道標付近で進むのをためらっている様子、少しして再び歩き出した。その位置に着いてみると、道標に「砂川公園」とあり左に下りの細道がついている。短縮コースかとも思ったが、遅い時間でもありそのまま舗装道路を下りることにする。
舗装道路の下りは、踏み出した足の反動がそのまま足首や膝に跳ね返るのがキツい。気分を紛らわすために、周囲の木々に目を留めながら下りていると、2000mの移動に25分もかかってしまった。
砂川公園の駐車場付近で前方の女性二人が会釈してお別れ。砂川公園のベンチで小休止して管理事務所前を通過する。公園を抜けたあたりで北を振り返り、鬼ノ城の西門にズームイン。
服部駅まで500mばかりの所で、右の足首の上が痙攣する。こむら返りだ。道端に座り込んでスポーツドリンクを飲みながらマッサージを繰り返す。特養老人ホームの長い建屋の向こうに鬼ノ城が見えている。かくして1時間20分をかけて服部駅に帰着した。古代の山城めぐりは充実していて楽しかったが、あの車と舗装道路を考えると、今後は車を利用するか別ルートを選択するのが良いのかも。