名 称

まきさん

所在地

岡山県美作市

標 高

429m

山行日

2021年4月21日

天 候

晴れ

同行者

なし

アクセス

赤磐市広域路線バス・福本下下車

マップ

    

このマップは、国土地理院の電子国土Webシステムから提供されたものを使用しています。

コース概要

長福寺 9:12千早の滝 9:24~9:26真木山へスタート 9:32神田池 9:51中国自然歩道標識 9:59
三地蔵 10:16六地蔵分岐 10:54~11:01長福寺屋敷跡 11:06参道の石段 11:10鎮守山王宮 11:15
開山跡近道標識 11:20開山跡(伝)鑑真和尚の墓 11:56山頂三角点 12:22~12:25車道出合 12:27
下山開始 12:30四差路 12:43~12:46六地蔵跡 12:51長福寺帰着 13:44

1.長福寺と千早の滝を観る

 公共交通機関でこの方面へアプローチするには、岡山駅から宇野バス美作(みまさか)線で下市バス停まで45分。そこで下車して赤磐市広域路線バス林野駅方面行きに乗り換える。午前中は8時3分と11時58分発の二本だけ。福本下には40分少々で到着する。
 当日は8時3分に下市を発ち、8時45分に福本下へ到着した。今回は行きにタクシーを利用するので、タクシー会社がある福本バス停で下車した方がいいのだが、弁当を用立てるためコンビニが近い福本下で降りた。そこから福本バス停までは徒歩で数分。長福寺まではタクシーで数分、料金は1,200円也。

 タクシーは、立派な鐘楼門と本堂がある真木山長福寺の駐車場付近で停車する。

 周囲の緑を背景に建つ朱色の三重塔。ツツジに囲まれた姿に息を呑む。
 解説板「長福寺の文化財」(真木山長福寺・美作教育委員会)によると、鎌倉中期の再建で県下最古の木造建築。屋根はこけら葺きで高さ22.07m。昭和26年に解体して山上から現地に修理移築したそうである。

 入山する前に、まずは千早の滝へ立ち寄ることにする。

 10分ほど歩いて小さな太鼓橋を渡ると千早の滝だ。落差17m幅3mで滝水は二条になって落ちるそうだが、残念ながら今日は水量が少なかった。

2.落ち葉の道を六地蔵分岐へ

 千早の滝から長福寺付近まで引き返して真木山の道標に従う。しばらくは舗装道を登って行く。

 落ち葉が積んだ道を進むと上から男性がやって来て挨拶を交わす。近くで工場を経営している男性は神田池のあたりまで登るのが日課だそうで、しばらく話し込む。スマートフォンに収納している以前に撮った山頂付近の写真を見せていただき、三角点は大変分かりにくい場所にあることなどを教えていただく。山側にガードレールが設置された道を行く。

 少し登ると砂防ダムがあり、その先で道は大きくカーブしている。

 右手に神田池が見えてきた。神田堰堤の碑が建っている。

 石碑の先から舗装道が山道に変わり、碧色の神田池の左淵を進んで細い沢の木橋を渡る。

 落ち葉でふかふかの道を登り進むと、真木山を示す中国自然歩道の道標が立っている。

 少し傾斜がきつくなった道でお地蔵さんに出会う。

 ちょっと進んでは回れ右。その先は回れ左。複雑な九十九折りの道は急坂を緩やかな坂に変える。落ち葉が積もっているので谷側へ滑らないように注意は必要だが、ハイキング気分で歩くことができる。眺望はきかないけれど、木洩れ日を浴びながら閑かな山を歩く愉しさは格別だ。左側が開けて三地蔵と対面、右端のお地蔵様には「八丁」と刻まれている。

 道の右側に細い渓流が現れた。またお地蔵様が鎮座している。刻まれているのは「十二丁」だろうか。

 竹林で大量の倒木が発生している。それを見ながら進むと、枝打ちされてさっぱりとした杉の木が整列。

 「西之坊跡」の標識があり、その先には「竹中坊青山作蔵跡」の標識。

 [真木山<-->長福寺]の中国自然歩道標識がある。たくさんのヤブツバキの落花が道を彩る。

 「平等院跡」の標識があり、六地蔵分岐が見えてきた。

 ひっそりと鎮座する六地蔵、なんだかもう一尊多いようなのだが。

 『史跡めぐりコース案内図』には数多くの史跡が残っていると記されていて、マップに26もの史跡の位置が載っている。そばに四体のお地蔵様が鎮座している。

3.山頂への道

 六地蔵分岐から[参道・元伽藍跡へ →]の道標が示す方向へ踏み出す。この先から史跡が続き、大半は標識だけなのだが、それらをゆっくり眺めカメラに収めながら進む。

〔長福寺墓地、西方院跡〕 墓地には新しいシャシャキが供えられている。

〔長福寺屋敷跡、仁王門跡〕

〔且之坊戸田竹雲跡、阿弥陀堂跡〕

〔弁財天跡と奥に荒神跡〕、本堂へ向かう石段。

 石段の下にきちっと積み上げられた石垣がある。階段の上には〔鐘楼跡〕

 〔本堂跡、大日堂跡〕

 鎮守山王宮は現存している。かなり傷みが激しく辛うじて建っている様子。

 さらに登って行くと、左手に「開山跡へ(近道)」の真新しい標識が現れた。実はこれがクセモノで、しばらく振り回されることになる。

 標識に従って左折したがその先が不明瞭で、いくつもの侵入先があり、思い切って入り込んだところを上向きに登る。ところが到着した平地には、今度は下に向かって「開山跡へ(近道)」の標識が取り付けられている。元の位置に戻って再度登り直すが、またぐるりと空振りして同じ道標の位置。しばらく周辺を歩き回って諦めようかと考えるが、どうしても開山跡をパスするわけにはいかない。

 三回目のトライ、今度はやや下り気味に進むと白いビニールテープが張り渡されている。

 それに沿って前進すると、谷側へせり出した場所に開山跡・(伝)鑑真和尚の墓があった。三度目の正直、ヤレヤレである。

4.山頂もどきから山頂へ

 開山跡探しのゲームにはとんでもない時間を費やしてしまったが面白かった。しかしここで、またもやウロウロすることになる。どうみてもここが山頂と思われ、三角点を探し回ることになった。

 結局三角点は見つからず下りることにする。下って行くと車道が見えてきた。地図を確認すると、山頂はそこから少し東側に位置している。先の場所は山頂もどきだったらしい。車道を下に見ながら上の道を直進する。

 幅広い平坦な道を注意深く進むが三角点らしいものはない。低い位置にピンクのテープが意味ありげに結ばれている。

 ピンクテープの位置まで行くとさらに向こうに赤テープがあり、そこまで進むと四等三角点があった。登り始めに出会った男性が話していたとおり、確かにこれを見つけるのは難しい。

 ポールに「真木山」の山名標が掲げられ、その下にヤブツバキの花が結ばれている。ようやくたどり着いた三角点にタッチ!ところでこの花、造花ではないぞ。誰が飾ったのかな。

 山頂は木々に覆われているので早々に引き上げる。先ほどの地点まで戻って車道に下り、数十メートル先の道へ入る。

 入り込んだ山道の左側には土砂や岩石、伐採木などが積み上げられていた。

 突き当たりの道を右にとって行く。

5.四差路から六地蔵分岐を通って下山

 下山道に出た。左側は杉やヒノキ、右側にはシダが繁った道を下りて行く。

 ところどころにタイヤの跡がある幅広の山道を下り進むと四差路が見えてきた。

 左への下りは「八塔寺ふるさと村」へ向かう中国自然歩道。直進すると「六地蔵跡」。ここは右折して「真木山大伽藍跡」へ向かう。

 左に槙茶畑跡と岡之坊跡の標識。

 さらに虚空蔵跡の標識が立つ。下山を始めて20分ほどで六地蔵分岐に帰着した。

 午後の日差しが映える山を見ながら三地蔵の前を通過する。

 やがて明るい神田池を通り過ぎて長福寺に帰着した。

 長福寺に参拝して、あらためて美しい三重塔を見上げる。時刻は13時50分、帰りのバス14時24分に乗るためにタクシーを呼ぶ。ところが「ただ今電話に出ることができません、お掛け直しを・・・」の連続で時間が過ぎる。
 このバスを逃すと次の便まで3時間以上待たなければならない。バス停までは歩くと40分はかかるのだが、途中でタクシーが間に合えばと歩き始める。電話をかけながら速歩を続けるがいっこうに繋がらない。半分ばかり距離を詰めたところで、後方から「またお会いしましたね」の声。何と、登り始めに出会った男性が車から顔を出している。こんな偶然がありだろうか?乗せていただいて余裕でセーフ。大変お世話になりました。おかげさまで最高の一日になりました。

〔後記〕

 真木山を巡りながら、あまりに多くの標識に驚かされました。盛時にはそれほど多くの僧坊や建造物などがあった ことを実感させるものだからです。
 それがなぜ消失してしまったのか。長福寺に到着してすぐ撮影した解説板『長福寺の文化財』(真木山長福寺・美作市教育委員会)の冒頭に次のように記されています。
  明徳年間(1390年頃)、山上に65坊が建ち並び隆盛をきわめていた。享保16年(1731年)に寺領を30石に減ら
  されたため、僧坊を22カ寺に合併した。その後明治維新で4カ寺となり、明治9年奥の院の長福寺ただ1カ寺とな
  った。大正14年に焼失し昭和3年現在地に移転した。

 いったい明治維新で何が起きたのか。今までの山歩きでも何度となくこのような解説を目にしたことはあったはずですが、深く考えることはありませんでした。しかし自分の足で実感すると、歴史の教科では知識として軽く触れられただけの「廃仏毀釈」を再点検しないわけにはいきません。
 大和民族は永年にわたって神仏習合という宗教秩序を維持していました。外来の仏教信仰と日本固有の神の信仰とを調和させていたわけです。それが明治維新になって、新政権が打ち出した神道国教化のために神仏分離を打ち出したことで、あの忌まわしい廃仏毀釈運動が起きます。「地方の神官や神学者が扇動し、寺請制度のもとで寺院に反感を持った民衆がこれに加わった(Wikipedia:神仏分離)」。これによって大量の仏像や仏具、寺院が破壊されたのです。
 明治の文明開化によって日本の近代化が始まったと言われる反面、醜い日本文化の破壊活動が繰り広げられたことを忘れてはならないでしょう。翻って、新型コロナ感染症をはじめとする多事多難の時節にあって、決して短絡的な判断に陥ることなく、絶えず複眼的な視点を欠いてはならないと自戒するところです。