1.駅前広場~友林堂~登山口
宇野線電車が常山駅に到着した。小さな無人駅が一時的にラッシュ状態になる。
駅前に集合すると正面に常山が迫っている。気温が低い上に風が強くて、じっとしていると寒さが染みこんでくる。
「とりあえず風を防げるところへ移動しよう」の掛け声で、いっせいに歩き出す。この勢いと元気の良さには敬服だ。100m先の友林堂までダッシュする。
「友林堂は常山城主戸川友林の位牌を安置する霊廟であり、文化2年(1805)に、撫川・早島・帯江・妹尾知行の四氏によって建立されたものである」(玉野市教育委員会・解説板より)
階段を上がると、戸川友林の五輪塔と二人の重臣の墓がある。
写真左はその墓のひとつ、右は玉垣に囲まれた友林の五輪塔で高さが245cmもある。(玉野市教育委員会・解説板より)
もとの道にもどって左折すると、すぐ右手の階段が常山登山口である。
2.底無井戸~栂尾丸跡~女軍の墓
左手に祠を見ながら登って行く。
かなり急な路面には、部分的に敷石が残されている。通信を管轄する中央官庁が逓信省と呼ばれていたころ、山頂に常山統制無線中継所を開設するための資材等は、この道から人力で担ぎ上げる必要があった。またその後も、職員はこの道を歩いて通った。そのために行った路面整備がいま踏んでいる敷石なのである。最もわれわれに近い歴史を、風化させないよう記憶しておくことは大切だ。先生の説明から自分が感じたことである。
登山口から30分ばかりで底無し井戸についた。水が一度も涸れたことがないのが名前の由来らしい。コンクリートの建家に収まっているのだが、スレート葺きの屋根がめくれあがってゴミが落ち込んでいる。
少し登ると三差路で、右へ進むと車道との出合いになる。
車道を上がると駐車場に出て、北側にNTT常山無線中継所のアンテナが見える。中継所が設置されているところが常山城の栂尾丸跡で、駐車場の位置は、山頂の本丸と栂尾丸のほぼ中間点になる。
まずは、かつての栂尾丸の様子を知るために中継所に移動する。この周りをぐるりと巡りながら、眺望を確かめるのが目的だ。
以前にも一度ここに立ったのだが、そのときは単に下界の風景を眺めているだけだった。しかし常山城の一廓となると、この眺望が見張り所としていかに優れており、戦略上重要であったかが判る。
が、しかし、現在の栂尾丸はかなり荒れていて、終わりはヤブコギ状態。誰も躊躇せず、黙して前進するのにはビックリ!
無事に下り立って、引き続き本丸方面へと登って行く。
ここは女軍の墓。合戦の案内板が立ち、女軍が戦うに至ったことと悲惨な最期について記されている。
急な石段を登ると山頂へ出る。
3.常山山頂と下山
山頂には賑やかな電波塔と2階建ての展望台がある。まず、二等三角点にタッチする。
城主上野隆徳公の碑が建つ。先に見た女軍の戦いがあったのは天正3年(1575)で、この戦いで、当時の城主上野氏は毛利氏によって滅ぼされる。その時の切腹場所・腹切岩が近くにあり、戦国時代の凄まじさを窺わせる。
藪をかき分けながらたどり着いたのは石垣。当時の優れた石組み技術の跡を見ることができる。
強風を避けられる場所を探して腰を下ろし、ゴーゴーと風の音を聞きながら昼食を済ませた。本丸を中心に、栂尾丸とは右へ90度ほど隔たった惣門丸へは、時間の関係で行かれず下山にかかる。
途中の右側の高みに「馬洗いの池」があり、ヤブコギよろしく竹をかき分けながら登ってみたが、その池も竹に覆われているようで見ることはできなかった。
かくして常山登山を終え、常山駅前広場で小休止をとって次の準備を整える。その間に、ポツリポツリと雨が落ちてきた。
4.大崎古戦場~与太郎塚~両児山城跡
長距離ウォーキングが始まり、最初に目指す秀天橋に着いた。案内板によると別名を秀天の石橋といい、長さ36m、幅約3m、厚さ60cmの花崗岩製とのこと。江戸時代中期のものといわれ、当時、岡山藩で一番長い石橋として有名だったそうである。
橋を渡った先に石の道標が立つ。「左 下津井~」と読めるが、「右 ~」は判然としない。
このあたりが大崎古戦場跡。秀天橋からの途中、かなり本格的に降り出してみんなのザックがびしょ濡れだ。自分はザックカバーのおかげで、水に弱いザックの中身を気遣うことなく済んだ。そこからさらに今来たほどの距離を歩くと、「與太郎せんべい」の看板が見えてきた。
負傷した宇喜多与太郎基家は、毛利に追い詰められて討ち死にする。宇喜多氏は菩提寺に葬られるが、八浜の人たちは与太郎様と呼ばれる祠を建てて参拝したという。祠に安置された石塔が、友林の墓にあるものと相似しているとD先生は指摘された。
さらに北へと向かう。用水路を跨いで川沿いを歩く。
やがて、左側に児島湖流域下水道浄化センターが現れる。そして、先に渡った用水路の橋を渡り返す。
緩やかな舗装道路を登って行くと、神社がある広場に出る。両児山(ふたごやま)公園である。
舗装道路を進むと「八濱城址」の石板が建つ。
東屋に集い、両児山城の戦術拠点としての背景などについて説明を聴く。
南側を廻る空濠が残っている。これは散兵壕、いわゆる塹壕(ざんごう)である。戦争で身を守るために使う溝であり、この城が用意周到な戦闘のためのものであったことがわかる。
例会はここで散会となり、最短距離のバス停「八浜市民センター」へ向かう。
北東に見える金甲山の山頂にズームで寄る。このあたりから駆け上がれそうな山なのだが、かつて苦労を強いられた山である。それに懲りて、次は怒塚山から登ってみようと思ったのを忘れていた。近々にもトライしたい。