1.出発~スタート地点
岡山駅から山陽本線上りに乗って、上郡駅には9時13分の到着。
JR上郡駅の2・3番線プラットフォームの岡山寄りに、智頭急行上郡駅の出入り口がある。係員に大原駅までの通し切符を提示して入る。1車両のワンマンカーには客の姿がない。しばらくして1人乗ってきて、都合2名の乗客で9時21分に大原へ向けて出発した。
新たな乗客がないまま佐用(さよ)駅に着く。ここは姫新線の系統境界駅でもあり、姫路方面からの列車の半数程度と、津山方面からの全列車がここで折り返す。
姫新線のワンマンカーが入ってきて停車し、しばらくすると特急「スーパーはくと」がやってきた(写真の左に小さく見えるブルーの車両)。
智頭急行は千種川(ちぐさがわ)に沿って走る。美しい風景が広がっているのだが、行程のほとんどはトンネルなので垣間見ることしかできない。よくこれだけのトンネルを掘ったものだと感心する。
10時8分に大原駅へ到着。木の看板「武蔵の里大原町」を掲げた建物が駅舎で、通り抜けて表に出るとでかい駅名表示に驚く。準備を整えて、10時20分にスタートだ。
2.大原宿~宮本武蔵生誕地
大原駅の正面をまっすぐに歩いて国道373号を渡る。旧道に入り左折して宮本武蔵駅方面へ少し行くと、まるでタイムスリップしたような風景が広がる。なまこ壁の町屋が続く大原宿だ。すぐに、家老や奉行の宿泊所にあてられた脇本陣が現れる。
続いて、参勤交代の大名の宿泊施設である大原本陣。因幡街道を往来する鳥取三十二万石の池田候はここに宿泊した。
宿場町のはずれに、お地蔵さんを挟んで「三界萬霊の碑」と「みちしるべ」がある。三界とは過去・現在・未来のことで、その三界を流転する諸々の霊を供養するために、天保13年(1842)に建立されたとのことである。「みちしるべ」にしたがって右に行くと、吉野川に架けられた橋を渡って津山道、左に行くと、参勤交代の大名行列が江戸へと向かった因幡街道である。
このあたりで、家庭ゴミを出しているご婦人に挨拶する。これからのコースを尋ねられたので話すと、車が少なくて自然が豊かな川向こうの道が絶対おすすめとのことで、急遽予定を変える。
ひとつ下の橋を渡って吉野川の対岸を山に沿って歩く。右側に山と木々、左には田植え準備の様子や田園風景が広がる。この道を進めば、やがて武蔵の里付近で因幡街道と合流するはずだ。
途中に、宮本武蔵とゆかりのある竹山城跡があった。
やがて因幡街道と合流し、行き来する車がどっと増える。宮本武蔵生誕の地が近くなり、この先は津山方面への国道429号と、因幡街道は県道5号へと引き継がれる。
県道5号に別れ、左折して佐用方面に向かう。歩道を堂々と走るトラクターには菅笠のお父さん。左折して武蔵の前を横切っていく。
進行方向の左手に武蔵武道館、右手には武蔵の里交流館が見えてきた。いよいよ武蔵の里だ。
3.讃甘神社~武蔵資料館~武蔵神社
讃甘(さのも)神社は武蔵が幼年の頃の遊び場所で、この境内で太鼓を打つありさまの記憶が、後の二刀流の誕生につながったという。
武蔵資料館の庭を散策する。武蔵道場や武蔵の像がある。
宮本武蔵生家跡には、武蔵研究家である福原浄泉の謝恩碑が建てられている。
木製の鳥居があり「道坂鎌」の表示、これは右から左へと読む。脇には一貫清水、武蔵の墓、武蔵神社などと書いた板が張り付けられている。
鳥居をくぐり通りを左に上がっていくと、武蔵にゆかりの深い、そして町内でもっとも大きい茅葺きの家「平尾家」がある。傍には樹齢400年のタラヨウと樹齢300年のウツギの古木があり、これらは美作市指定天然記念物になっている。
舗装道を上がっていくと右側に武蔵神社。武蔵自筆と言われる戦気が石碑に刻まれており「戦気 寒流月を帯びて澄むこと鏡の如し」とある。
武蔵神社は昭和46年に、武蔵330年忌にちなんで武蔵の墓のそばに創建されたものである。剣聖宮本武蔵の眼光鋭い肖像画が印象的だ。
宮本武蔵は正保2年(1645年)に熊本で没したが、その9年後に養子伊織が武蔵の里に魂を帰すため、ここ平田家の墓地に分骨されたと伝えられている。
墓には案内板があり、左が宮本武蔵の墓、右は武蔵の両親の墓と記されている。
4.一貫清水~釜坂峠
武蔵神社を参拝して入口の鳥居まで戻り、さらに道を上がっていく。ここから一貫清水までは760m。武蔵の里を後にして釜坂峠へ向かうことになる。
途中に武蔵の竹馬の友であった森岩彦兵衛の墓があり、本位田外記之助(ほんいでんげきのすけ)の墓がある。本位田外記之助は武蔵の幼なじみで、武術の師である平田無二斎に上意討ちされ、無二斎はここに葬って墓石に文字を刻まなかったという。
案内板によると、この一貫清水は釜坂峠の八合目にあり、年中変わらない冷たい水が湧いているとのことである。旅人が立ち寄り、喉を潤して「ほんに壱貫文の値打ちがある」と言ったところからこの名がついたといわれる。
実際に豊富な水が竹口から石臼状の器に向けてほとばしっていて、清浄な冷たさが手に染みた。
釜坂峠はあと300mほどだが、このあたりから急な山道にかわる。一貫清水で勢いを得た旅人たちが足早に山越えをしている様子が見えてくるように感じられる。
竹林になり、向こうの方に建家らしきものが見えてきた。すでに午後1時前になっているので、峠に着いたら昼食にしようと思っていたのだが、どうも様子が違うようだ。
建築途中だろうか、床ができてない。それに展望がきかず薄暗くて休憩できる状態ではない。
急いで山を越えてしまおうと下りにかかるが、薄暗い急坂、潰れかけた廃屋、イノシシ捕獲の仕掛け、それに路面を濡らす湧き水といった最悪の雰囲気。気色悪い中を、滑らないように注意しながらひたすら下った。
5.瑞籬(みずがき)神社~大畠
長く感じたが、10分ほどで下ることができた。
下り立ったところには何の標識も案内板もなく、ここで道を間違えて20分以上も時間を失うことになる。
大原から釜坂峠手前まではあちこちに標識があり、丁寧な説明を記した案内掲示があったのだが、兵庫県側になったとたんに消え失せ道標も見当たらず、どこにいるのか、どう進めばいいのかが分からなくなり困った。
地図をたよりに進むべき道路を探すが、新しい鳥取自動車道が記載されていないので判りにくい。遠くに「釜坂第一トンネル」の表示が見えたので、やっと釜坂方面を特定することができた。
風景の移り変わりから、正しい道路を進んでいることが次第に明らかになる。
小さな神社が見えてきた。瑞籬神社だ。
すでに午後1時半を過ぎている。小さな境内に腰を下ろしてやっと昼食をとる。
30分ほどの昼食と休憩を終えて道を急ぐ。
東中山のあたりから急に公共工事が増えてくる。高速道路の下に、明治29年(1896)に岡山県讃甘村の中山が兵庫県江川村に編入されたことを示す「旧県管轄界跡」の碑があった。最近建てられたもののようだが、この豪華な碑は何のためのものだろうかと不思議に思う。
大畠に入った。まだまだ平福までは遠い。
のどかな山里の風景が広がる。すでに田植えを終えているところも多い。こんな景色は心を清々しくしてくれる。
しかし大半の田畑には、害獣を電気ショックで撃退するための電気柵が設置されているのには驚いた。
東中山の河川工事からずっと道路に沿って流れていた江川川(えかわがわ)とは、この先の豊福付近でお別れとなる。
240号線が161号線に変わる三差路で、進行方向の二つの分岐に同じ[161号]の道路標識が設置されている。ここから161号を進むことになるのだが、90度違う道路のどちらを選べばいいのかわからない。
こんな偶然があるだろうか、通行車両も少ない中で、迷って立ちつくしているその時にパトカーがやって来た。おかげで迷わなくてすんだのだが、標識には現在地の名前ではなく行き先を明記してもらいたいものだ。
教えてもらった道はだら長の上り道で、どこまで行っても上りばかり。城かと見まがうほど立派な農家が頂上で、今度はゆるりとした下りが長~く続く。
事情を知らない観光客の独善といわれてしまえば仕方ないが、つい最近までは棚田だったと思われる田圃が草に覆われており、一部で残土処分が行われている風景には胸が痛む。
しばらく行くとまた工事中で、これまたとんでもなく長い距離にわたって河川の護岸工事が進んでいる。岸も川底もコンクリートブロックで固められている。河川といっても幅数メートルの田圃用水なので、こうなると雑草も水草も生えないわけで、魚や昆虫が根こそぎ絶滅させられるのではと心配になる。
長閑で美しい自然に満ちた地域で、このような工事が行われているのをどう解釈すればいいのだろうか。
6.平福宿
向こうの山のてっぺんに奇妙なものが見えてきた。後でわかったのだが、これは利神山(りかんやま)にある山城であった。やがて「宿場町平福」の入口案内板が見えてくる。
町なかにある旧田住邸跡に立ち寄る。庭にシャクナゲが咲き、池にはカキツバタとコウホネが花をつけていた。
これは平福のシンボルタワーだろうか、「星の宿・花の平福」と書かれた大きな提灯が設置されている。橋向こうに智頭急行平福駅が見える。
時刻はすでに午後4時を過ぎていて、列車の発車までに20分ほどしかない。
佐用川沿いに蔵屋敷風景が並ぶ川端風景を楽しみにしていたのだが、とても間に合いそうにない。駆け足気味に最短コースで蔵屋敷付近に移動したが、そこ(「てんじんはし」付近)からは河床に降りられない。しかたなく、橋の上から角度を変えながら何枚かをデジカメに収める。
いよいよ時間が迫り駆け足で駅へ戻る。
残念ながら、時間不足で平福宿はほとんど散策できなかった。プラットフォームから武家屋敷の方向を1枚、シンボルタワーの方も1枚撮って因幡街道の旅を終えることにした。
帰りの列車の到着だ。