1.登山口(備中松山城登城口)へ
初めての車でのアプローチ、登山口を通り越して城見橋公園駐車場に到着した。「ロケのまち・備中高梁」の看板があり、110台の駐車場にはかなり車が停まっている。買い物休憩施設があり弁当を買うこともできる。通常はここに車を停めて、ふいご駐車場までシャトルバスで移動する(15分間隔の運行で所要時間は約5分)。
〔お勧め〕
ここで高梁市産業観光課発行の『備中松山城・城山ウォーキングマップ』をいただきました(無料)。マップの他に備中松山城の見取り図、歴史年表、周辺で見られる主な野鳥や植物などの情報が満載。とても良くできた便利なものなので、ぜひ入手をお勧めします。
登山口から入山するために来た道を戻り、中洲公園付近の駐車場に車を停める。そこから少し下りて、橋名票に「小高下谷川」と刻まれた橋を渡る。向かい手右に「松山城」への中国自然歩道の道標が立っている。
2.ふいご峠から備中松山城へ
左にカーブするとすぐ「備中松山城 登城口」の案内板。ここが実質的な登山口である。石ころは多いがよく整備された山道が続く。
途中に立てられている「野猿に対する注意」のお触れ書きを見たり、「大石良雄腰掛岩」を見ながら登って行く。曇天で温度はさほど気にならないのだが、湿度が高く汗が噴き出してくる。30分足らずで右上が開けてきて、鞴峠(ふいごとうげ)駐車場への分岐になる。
分岐を右に取ると鞴峠に到着する。位置的には8合目に当たり、ここで小休止する。「猿に取られないように全部食べてよ~」、Iさんから珍しいサクランボを沢山いただきました。さっぱりして美味しい! 写真右は高梁市生まれの歌人・書家・画家そして政治家として活躍した清水比庵の歌碑。「水清き川のながれ 山高し日は 山を出で川をわたる」とある。
分岐へ下りて右に進む。お城までは700mだ。
見晴らしの良い「中太鼓櫓跡」を皆は通過して行く。自分はちょっと立ち寄って城下町を一望するが、残念ながらモヤっていた。いやはや、お待たせしてすみません。
備中松山城への最後の階段を登る。急坂に見えるが段差が小さくて歩きやすい。間もなく大手門に到着する。何度見ても、ここからの岩盤と複雑な石垣の形状、漆喰塗りの城壁には感動する。NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)のオープニングに使用されたカットが、解説付きの説明板として設置されている。漆喰塗りの土塀を土壁に見せるためにCGを利用、CGによる滝水や樹木の追加など、コンピュータグラフィックスを多用しているのに驚かされる。
天守をもつ山城としては最も高い所にあり、天守や二重櫓と合わせて現存する土塀の一部は国の重要文化財に指定されている。また、日本三大山城のひとつでもある。後ほど出かける大松山城跡がもっとも古く、1240年(延応2年・鎌倉時代)に有漢郷の地頭・秋庭三郎重信によって最初に築かれた。戦国時代は激しい争奪戦で城主交代が繰り返され、三村元親の時代に大松山・小松山を範囲とする一大城塞が形成されたとのこと。1683年(天和3年)に二代・水谷勝宗によって大改修が行われて現在の姿が完成するが、三代の勝美が若くして急逝、跡継ぎがいなかったので水谷家は断絶となる。その後は赤穂藩主・浅野長矩(ながのり)が城を受取り、家老・大石良雄が城番となったそうである。さらに城主が変わりながら、明治時代まで板倉氏8代が続いた。
自分は歴史には詳しくないが、案内板やその他の諸資料によると、初期の築城から1873年(明治6年)の廃城に至る630数年間の、歴史の重みを感じさせる城である。
三の丸に着いて弁当を食べていると、急に賑やかになってきた。引率の先生が挨拶にみえて、小学校4年生のグループ登山であることがわかったが、皆お行儀よく楽しそうな顔が印象的だ。昼食時には仲間から、また漬け物やキャンディー、チョコレートなどをいただいて恐縮至極。
楽しいランチタイムを終えて城内を見学する。二の丸から本丸へと移動して入城する。外観は低めに見えるけれど、実際に登ってみると思っていたよりも高く感じる。自然の岩盤と石積みを巧みに組み合わせていることがわかる。
天守の急階段を登ると、城の歴史や構造の解説パネルが展示されている。小堀遠州、水谷三代、大石内蔵助などの人物解説も見える。その一角に御社壇(ごしゃだん)がある。水谷氏が松山城を修築した際に、三振りの宝剣と共に神々を安置して安康を祈ったものである。
3.大松山城跡から吊り橋へ
現在は備中松山城と呼ばれる小松山城を離れて天神の丸跡へと向かう。以前に復旧工事中だった天守北側の石垣が、見事に仕上がっている。
水谷勝宗の時代に造られたとみられる二重櫓(にじゅうやぐら)を下から眺める。天守と同様に、自然の岩盤を削りだした上に石垣と建物が築かれている。付近には藤の花が満開だ。
天神の丸跡までは420m、二重櫓の先を北へと下って行く。草絨毯の広場は番所跡で、中央にひっそりとお地蔵様が立っていた。
土橋北詰には見やすい道標がある。今日の最終目標地点の「大松山つり橋」までは1.5kmとある。このあたりが鞍部で天神の丸跡へと登り返す。以前は道が定かでなく、両手を使ってよじ登ったことが思い出される。
古戦場といわれる相畑城戸跡(あいはたきのとあと)を通過する。古い石垣が残っている。
少し登って天神の丸跡に到着する。案内板背後の小高い部分が臥牛山の最高峰で標高約480m。ここは「大松山城跡」の方へ進む。
高さ30m、推定樹齢350年の「臥牛山のアベマキ」を見上げる。
大池の手前の道標に従って80m先の大松山城跡へ向かう。
「大松山城跡」の石碑が立ち、周辺にはガクウツギの花。
これが中世城郭の跡、松山城の歴史はここから始まったのだ。切り拓かれた広場と井戸があり、さらに奥へと踏み入ると深い堀切と思われる地形があった。
大池は総石積みの人工池だ。別名「血の池」とか「首洗いの池」とも呼ばれるそうで、人の首や血の付いた刀を洗ったと伝えられているとか。現在は周辺の発掘調査が行われていて、一部がブルーシートで覆われている。
大松山吊り橋に到着した。今までの雰囲気とはまったく異質な鉄製の橋、しかし立派な吊り橋だ。動物遮断用の二重扉を開けて吊り橋に入る。橋の向こうに以前に歩いた山道が見えている。あれを歩けば15分ほどで市道楢井松山城線の終端に出るのだが、そこから先はとんでもない長距離ウォークになる。今回はここが折り返し地点である。帰り際に、ロープの端に取り付けられた金属製の円盤に気付いた。一帯はニホンザルの生息地であり、こうしておけばお猿さんもロープを渡ることができないわけだ。
4.そして下山
大松山吊り橋から35分ほどで本丸へ戻ってきた。二の丸にある与謝野寛の歌碑には
「松山の渓を埋むる朝霧に わが立つ城の四方しろくなる」
と刻まれる。与謝野寛も城を取り巻く霧に感じ入ったようである。
城下町の風景を眺め、大手門跡から下山を開始する。
下りは速い。13分で鞴峠駐車場下を通過する。
快調に下り進んで登山口に帰着し、駐車場へと戻る。
仲間たちの豊富な情報と機動力には恐れ入るばかり。帰路のコースに「おいしいシュークリームの店がある」、ということで備中高梁駅周辺の洋菓子店に車を横着けする。銘々お土産に買い求めたり、その場で食べ始めたりで、山歩きの疲労など微塵も窺われない。さらに吉備中央町の重森三玲記念館に立ち寄って、三玲氏が18歳の時に造った茶室「天籟庵(てんらいあん)」と庭などを鑑賞する。
かくして充実した一日を共にできたことに感謝。ハンドルを握ってくださった皆さん、お疲れ様でした。