1.赤坂バス停から登山口へ
岡山駅から瀬戸または片上方面行きの宇野バスで約40分、赤坂バス停に着いた。道路を渡り「県立三徳園(小鳥の森)」の道標にしたがって歩く。
畑中の道を進むとやがて住宅街を抜けて、15分ほどで上道中学校に着く。
中学校前を右折すると、公園のある農業者研修施設「三徳園」の入口だ。
自動販売機を備えたトイレがあり、ここで山歩きの準備をする。広場の向こうにこれから登る新庄山が見えている。
東の登山口へ向かうため中学校の方へ戻る。バサッと大きな音がしてビックリ。50cmほどのヌートリアがジャンプして泳いでいる。
中学校の前を東へ進み、右側の小鳥の森ゴルフパークのネットに沿って突き当たりを左折すると橋と鳥居が見えてくる。ここが登山口だ。今から山へ入ろうとする同年配の男性に声かけすると、その前に足慣らしをしてすぐに追いつくから、先に登るように言われる。
登山口には、「新庄山城跡」の石碑と並んで解説板が設置されている。その隣には「ハイキングコース完成図」。植物観察ゾーン、史跡ゾーン、野鳥観察ゾーン、植物観察ゾーン、記念植樹ゾーンがあるようだ。
2.ツツジの小径を新庄山山頂へ
登山道へは石鳥居をくぐって入る。扁額には「石鉄山」と刻まれている。
すぐに岩が露出した急登になる。ジグザグしているが、感覚的には直登しているようで息が上がる。
やがて平坦な道になると「躑躅小径」のプレート。追いついてきた同年配はすでに前方を歩いている。
場所によってかなり違いがあるようだが、この辺りのツツジは開花が進んでいる。
宇喜多直家ゆかりの城、その城跡に着いた。登山口の解説板には、宇喜多直家は天文18年(1549)に浦上宗景からこの城を与えられたとあった。ここにも解説板があるが文字がかすれて読みにくい。宇喜多直家が岡山城を築城して備前を平定した後に、新庄山城は廃城になったようである。現在は石鉄神社(いしづちじんじゃ)が建っていて、ここが新庄山の山頂である。
石鎚信仰者によって建立されたらしい「石鉄開山 主大先達西崎喜代治翁」と刻まれた石柱。拝殿の裏には二つの祠がある。
祠の後ろにはベンチがあり、北に平島方面の街並みが広がっている。
巴瓦に彫られた「石」は石鎚神社の石だろう。2面の額の右側のものは次のように読める。
「桓武天皇勅願役行者開山 石鉄山大悲蔵王大権現 弘法大師修行護摩道場」
石鎚信仰の母体である石鎚山は、飛鳥時代(685年)に役の行者役小角(えんのおづぬ)によって開山されたと言われているが、役小角の生まれも没した年もわかっていない。飛鳥時代(592~710年)の呪術者で修験道の開祖として知られているので、781年に第50代天皇に即位した桓武天皇とは時代にギャップがある(これらの事柄、歴史に疎い自分はWebで必死に検索中!)。これは何を意味するのか?
順序から言って、役小角が開山した後に桓武天皇が病気平癒を祈願して、快癒したことから勅願寺の称号を下賜されたということのようだ(四国八十八ヶ所霊場会・第64番「石鉄山 金色院 前神寺」より)。 最後の文は、弘法大師もかつて石鎚山で修行したと伝えられているので、なるほどと頷いてみる。
左の額には次の巡礼者の歌(ご詠歌)が記されている。
「前は神 後は佛 極楽の 萬の罪を くだく石鉄」
つまり
「前は神 後は仏 極楽の よろずの罪を くだくいしづち」 と読める。
3.展望台からミモザの道
石鉄神社を後にして尾根筋を進むと、しだいに表土がむき出して凸凹岩の道になる。
小石を器用に積んだ小さなケルンが散在する。
同行の男性によると、かつてはこの辺りまで城郭だったらしいとのこと。言われてみれば石垣の跡らしいものがある。すぐ下に砂川が見え、遠くに吉井川を望むことができる。
岩の道を進むと「展望台・休憩所」の道標。
道標に従って進むと展望台に着いた。同行の男性は、展望台に備え付けの地図と写真を取り出して手摺の上に置き、「この先に白い大山が見えるかも」。コンパスを取り出して、地図を正確な方位と一致させてその方向をしばし注視。春霞の彼方に、ん~、見えているようにも・・・。
北には悠々たる熊山の姿。
展望台を後にして道標の位置に戻り、前進し始めるとミモザに初対面。コバノミツバツツジとのハーモニーが絶妙だ。
おおっ、これはフサアカシアに間違いない。ここから先、ず~っとミモザの道が続く。
若者が駆けてきた。軽やかな足取りで挨拶と共に駆け抜ける。羨ましいねえ。
柔らかな色合いを堪能しながら進む。遠景もレモンイエローに染まっている。しかし、ミモザロードの終端は愕然とする風景で終わった。同行の彼によると、一週間ほど前の強風で折れたとのこと。大きなフサアカシアの幹が裂けて、たくさんの花をつけた枝がむごたらしい姿で横たわっている。自然の淘汰はかくも厳しい。その先には、もうミモザはない。
4.太平山と周辺の探索
木片に書かれた「明王寺→」の道標。右側に道が分岐している。下へ進むと三徳園へ戻るので上へ進む。同行の彼は先般から「今日はシャシャキ山へ行かない方が良い」と繰り返す。確かに予定からかなり遅れていて、もう12時を過ぎている。彼は午後から用向きがあってここで別れるつもりだったが、自分のことを気遣ってもうしばらく同行してくれるという。
その彼の後を進む。山道は整備されていて歩きやすい。
送電鉄塔保守用の標識が立っている「橋のある分岐」に来た。ちょうどシャシャキ山からの男性が下りてきて、しばらく話し込む。一部で道迷いしそうなポイントがあると聞き、注意しなければならないようだ。こんな情報は大変ありがたい。今まで同行してくれた男性もここで下山することになり、二人にお礼を言ってお別れする。
とりあえず橋の下をくぐってみる。向こうがパッと開けて明王寺が見える。どっしりとした御堂に桜花が色を添える。地図読みで大切な送電鉄塔の位置を確かめる。
元に帰って登りに取りかかる。目的の方向とは逆に橋を渡ってみる。
広場には何も祀られてない祠があるだけ。明王寺の方を眺めただけで引き返す。
歩きやすい道を登って行く。満開かと思わせるツツジもあるが、まだ多くは蕾が堅い。
岩がせり出した斜面を登ると、細道をバランスを崩さないように歩く。
岩の急斜面が続き、エッこらヨッこらと登る。
登り切るとすぐ先に「馬路山」のプレート。
さっき明王寺の近くで確認した鉄塔へと向かう。天辺に鉄塔番号72が見えた。
さらに進んでNo.72鉄塔を通過する。
細道を進むと、また岩の斜面が現れてひと登りする。
上り詰めたところから見える三徳園と遙かな熊山。ここからまた歩きやすい道が続く。
「昭和28年度治山事業」の記念碑が立っている。赤テープを見ながら前進。
「大平山」に到着した。まだ13時過ぎで余裕がある。と、ここまでは良かったのだが、これから先はトライとリトライの連続。少し進むと赤テープを何カ所も貼り付けて、テープや幹に行き先を書いた木と出合うのだが、その内容が理解できない。そこですべての分岐を試しては引き返す。手元の地図に「石池」の部分が欠落していたため、そちらへ必要以上に踏み込んでしまってロスタイムを積み増すことになった。
4つの分岐を試したが、いずれも急坂の移動が必要で、しかもテープが途中で消えたりで自信が持てない。最近、後期高齢者に突入してからは危険にきわめて敏感になっていて、30分の取り組みで打ち切りを決定。大平山へと引き返す。帰り道の穏やかなこと・・・。
右脇にケルンがある広場を見つけて遅い昼食をとることにする。視界は狭いけれどとても心の安まる空間。春を独り占めにして、愛妻弁当に舌鼓を打つ。
蝶のことはまるでわからないが、図鑑で調べると黒紋があるタテハチョウで「ヒオドシチョウ」らしい。自分が踏み込む前にこの石に留まっていたのだが、近くに腰を下ろして動くので、そのたびに飛び立ち、そしてまたこの石に戻ってくる。面白い行動を眺めながら静かな時間を愉しみ、15時近くまで過ごしてしまった。
5.下山して三徳園を散策
下山は速い。岩の斜面を注意深く下りながらも、10分ほどで橋のある分岐へ帰着した。
三徳園への分岐に着いててからは、こんな道路を下るだけ。
途中に土置き場があり「ハイキング道の補修にはこの土を使用ください」の掲示。補修をしてくださる皆様に感謝です。そして、新庄山ハイキング道の登山口に下り立つ。
周辺の桜を眺めて歩く。
樹木園の木々の間を歩いていると巨大なのが聳えている。ネームプレートにモクレン科のユリノキとある。季節になるとチューリップのような花をつけるそうだが(花期は5~6月頃)、この大木に花が咲くとどんな姿になるのか想像できない。その時期にまた来たいものだ。ユキヤナギやミツマタなど、季節の花を愛でながら三徳園を後にする。