1.頂上へ向けて
JR常山駅で下車して道路へ出ると、すぐ先に登山口の標識が見える。
登山口付近から望む常山。山上に無線鉄塔が立っている。
登山口の石柱には「常山城趾友林堂」と刻まれており、道標には「常山城コース」とある。道標に従って10mばかり歩くと戸川友林堂だ。案内板によると、常山城主戸川友林(慶長2年、1597年没)の位牌を安置するために、文化2年(1805年)に建立された霊廟とのことである。
道を上がって舗装道を左に進むと再び「常山城コース」の道標が立っている。ここから城跡まで3.9kmだ。
取りつきは石段から始まる。これを登るとフェンスが設置されている。
フェンスにはイノシシ対策の注意が掲示されていた。入った後はきちんと門扉を閉めて、竹林の道を登って行く。
3分ほど進むと道が分岐している。どちらへ行こうかと確認していたら、足元に「(右)登山道」の矢印板が落ちていた。
道中のあちこちにお地蔵様がある。
イノシシのフェンスから30分ばかりで底無井戸に着いた。一度も水が涸れたことがないのでこの名がついたらしい。
井戸はコンクリートの建家に収まっているので、鉄の扉を開いてのぞき込んでみた。
底無井戸を過ぎると分岐がある。右側には階段があり、これを上がると車道に出る。
分岐を左に進んで竹林を行くと惣門丸跡に着く。様々な容姿の石仏が並んでいる。
以下は、その石仏のクローズアップ。
九十九折りの竹林を登っていくと突然明るくなって兵庫丸に着く。左奥の方に見えるのは兵庫丸の石仏。
兵庫丸の石仏は実に穏やかな顔をしておられる。
本丸の下と思われるしっかりとした石垣が残っている。
兵庫丸のすぐ上が山頂だ。
2.山頂にて
麓のイノシシ・フェンスから約1時間で山頂に到着だ。
山頂には城主上野隆徳公の碑が建ち、そのかたわらに城主が切腹したとされる腹切岩がある。
少し離れたところに二等三角点が設置されている。
ここには大きな電波塔がある。あちこちにベンチが設置されていて、西に面したベンチで昼食をとることにした。
2階建ての展望台へ上がってみる。屋上デッキにキティ山岳会のみなさんが付けたプレートがあった。
電波塔と木立の間に国道30号線が見えたのでズームインしてみる。
ガスが多くて見えにくいが、北東に岡山市を望むことができる。すぐ下は灘崎町で、ズームで寄ると鴨川から児島湖が霞んでいる。
山頂は穏やかで無風状態、陽差しがゆたかで暖かく真冬とは思えない。
ガスで遠景が見渡せないのは残念だったが、日だまりの中での食事は最高。のんびりと1時間近く過ごした。
その間に若い男女のカップルが1組、トレッキングポール2本を操り熊鈴の音を響かせる男性が1名、それぞれ食事中の背中の向こうを足早に通り過ぎていった。よけいなお世話ながら、素晴らしい日和の山頂でゆっくりしないなんて、もったいないなぁ。
3.女軍の墓から千人岩へ
13時半ごろに山頂を出発。北側の急階段を降りていたら爺様に出会った。降りると広場があり女軍の墓がある。
常山合戦については説明板にあるとおり悲惨な戦であり、「常山女軍の戦い」と呼ばれる哀史として知られている。
千人岩の方へ進もうとするが、広場をどちらに行けばいいのかわからない。
ちょうどそこへ先ほどの爺様が降りてきたので道を尋ねる。ところがいっこうに話しが通じない。「わしゃ、耳が遠え〜」とのことで納得、地図を示して千人岩へ行きたい旨を話すと、「わしが案内してやる」と言うことになりありがたくお願いする。
北にあるNTT無線中継所からの眺望が素晴らしいからと、爺様は先になって歩いて行く。広場からの上り道に艶っぽい姿の石仏があったのでお姿をいただく。
そうして無線中継所に着いたのだが、景色を眺められそうな場所はない。ところが爺様は、周囲を取り囲むフェンスわきの細い苅込の中へ迷わず入って行く。
たしかに素晴らしい眺望だ。灘崎と岡山方面を眺め、直下のエリアとファーマーズ・サウスビレッジにズームイン。
しかし、立っている場所はきわめて狭く不安定で、けっこう危険な感じ。
爺様曰く、灘崎を中心にほとんどの住宅地の海抜が低くて、周辺の川の水面よりも1mばかり下にある。川が溢れるとどうなるかがはっきりしているのに、どこも対策を怠っていると憤懣をぶちまける。かなり乱暴な表現ではあるけれど、爺様の弁は頷ける部分が多い。
舗装道路に戻って落ち葉が散在するなかを歩いて行くと、登りの途中で底無井戸の上にあった分岐を通過することになった。
荒れた道路を歩く。ところどころで山肌が掘り返されている。もしやイノシシの仕業かと思っていたら、爺様が「この山はイノシシの巣になってしもうとる」。この言葉は迫力があります。
道路に積み重なった落ち葉。爺様はしっかりした足取りで進んで行く。
千人岩に着いた。道路から右脇に入ったところから谷に向かって大きな岩が張り出している。ここで休憩するのも長閑で良さそうだ。
4.車道の崩落現場と下山
「えらいことになっとるから見てみい」と、爺様は通行禁止の柵を越えて進んで行く。その先では車道が崩落し、電話線はぶち切れて地中の排水路がむき出しになっている。昨年の台風で発生した土砂崩れによるものだ。
「土を盛ってアスファルトを被せただけの道がもつわけがない。鉄杭を打たずにおいて」と爺様は怒っている。人が渡ることもできないほどに完璧な崩落、これは簡単には修復できまい。そして、予定していた車道を周回しての下山は諦めることになった。
元の道を引き返して、底無井戸の上の分岐に出て往路へと下りて行く。落ち葉が積もった滑りやすい急坂を、時折大声で話しながら爺様は先を下りる。自分はただただ、落ち葉に足をすくわれないようにその後を追うばかり。
5.そして帰路に
お世話になった爺様とは友林堂のあたりでお別れし、無事に常山駅に到着した。ところが次の電車までかなりの待ち時間があり、茶屋町方面へ歩くことにする。
15分ほど行くと常山への車道登山口があり、登山口の標識の下に小さな文字で、土砂崩れのため車両の通行ができないと書いてある。これを見落としたらどうなるのか、途中で引き返すにはかなり手間取るに違いない。目にとまりにくいこの注意書きは問題だ。
常山への車道登山口を過ぎてしばらくした頃に振り返ると、児島富士の名にふさわしいどっしりとした常山の姿。
それからの歩行は凄まじかった。宇野線に沿って歩いたのだが、茶屋町までの距離は半端ではない。だが歩いたことによって、爺様が言っていた埋め立て地の状態を確かめ、海抜が低いのを体感することもできた。
道々、途中から行動を共にした爺様のことを考えながら歩く。話は一方通行だったが、老いてなお地域に寄せる思いがにじみ出ていた。郷土と人に格別の愛情をもっている御仁であった。
結局、茶屋町までは歩けなかったが、すぐ手前のJR瀬戸大橋線・植松駅から帰路につくことができた。