1.筒ノ宮山登山口(マップ:分岐2)へ
JR津山線はワンマン運転なので駅の機能はきわめて限定されているが、木造瓦葺きの伝統的な駅舎や立地・地名を反映したユニークなものもある。しかし小原駅はシンプルそのもので、ボックス型の駅舎内に3人掛けのベンチがある他は何もない。トイレもなかったようなので要注意だが、これは見間違えかも!?
駅を右折するとすぐに踏切があり、その手前を左折すると国道53号に出る。
右折して国道を北へ向かうと、左手に「法然上人・母子決別の地 都原 仰叡の燈」の道標がある。勢至丸(法然の幼名)の都への旅立ちを見送ったことから「都原」と名付けられ、この地に灯を灯して比叡山にいる我が子の無事を祈ったことから「仰叡の燈」と呼ばれている。
道標に沿って直進したが、灯籠と石碑があった場所を墓地と勘違いして見過ごしてしまう。残念! マンホールの蓋に見とれていたわけではないのだが・・・。
送電鉄塔は地図上で現在地を特定するのに役立つことが多い。地図の送電線記号から、道標の北400mあたり、まさに「仰叡の燈」あたりを通過していたはずなのだが、通り過ぎればのどかな田園風景が広がるばかりである。
カーブミラーがある分岐は右に進む。小川の橋を通過すると坂道に差しかかる。
急な坂道の左には西幸第一集会所。通り越した左の雑木林から小畑池が垣間見える。
山はすでに目覚めていて笑うのも間近か。急坂をひたすら歩む。
五差路に着いて直進すると、角地に菊神池改築の記念碑がある。昭和58年施工と刻まれている。
元に戻って菊神池の南面に沿った緩い坂道を行く。
分岐1の手前から筒ノ宮山の方向に電波塔が見える。あのあたりを通過することになるのだが、かなり近づいているようだ。
分岐1の三差路は右が盛り上がっていて、その上に「南無阿彌陀佛・天保十五辰年」と刻まれた石碑がある。分岐1を左へ進むと間もなく次の分岐になるが、これは直進する。
途中でこんな分岐が現れるが右は民家への道で行き止まり。直進すると左側に防火水槽があり、雑木のトンネルを進む。
また分岐が現れる。これを右に入ると無線中継施設があり電波塔がそびえている。
直進すると左が開けて、遠くに別の電波塔が見えるのでズームで寄ってみる。
このあたりがいちばん眺望が良くて、久米南町の山々と山あいには建物やファームなどが見える。
分岐2に着いた。ここが登山口と言えそうだ。正面には赤い消火栓ボックスがあり、道路は左へカーブしている。筒ノ宮山へ向かうには右のやや狭い道に入る。
2.筒ノ宮山の山頂風景
左へ巻いた急坂を登ると「頼元配水池」のコンクリート水槽がある。
今年の花粉の飛散量は例年の2倍とかで、今日は特に多いので十分な対策をするようにとの花粉情報が流れている。まだ何ともないのだが、杉も桧もひしめいていて、これはヤバいかも。
傾斜が少し緩んできて車2~3台が駐車できそうな広場に着いた。右へ進めば筒ノ宮山山頂が近い。
左側に下りの道が見えたので確認する。地図にはない道だが下山に使えそうだと思う。ここまで、地図と風景を照らし合わせながら、あらためて地図の情報に感心しながらやって来たのだが、この道は最近拓かれたものなのだろうか。
右の急坂を息を弾ませながら5~6分登ると石鳥居が現れた。山頂に到着である。
鳥居には「磐筒神社」の扁額がかかる。参道を挟んで「塩島賢治翁頌徳碑」が建っている。
磐筒神社(いわつつじんじゃ)の参道を進むと、右に物置らしい建物がある。
その奥に拝殿と神殿があり、まずは参拝する。
物置の反対側には畳敷きの控所があるが鍵が掛かっている。周辺にはいくつもの末社が並んでいる。
地図には山頂が社の裏と表記されているので、右(東)側の道らしい部分から北へ回り込んでみた。すると広場に出て、西寄りの位置に何かあるのが判る。
これは何だろうか。磐座(いわくら)のようにも思われるのだが。位置的にはここが山頂のようだ。
境内には解説板のようなものはまったくないので、岡山県神社庁のホームページから由緒をメモしておこう。
「当社は、和銅6年現在の地に遷座したと伝えられている。
口碑によると、往昔神萬山の峯頂で笛を吹く音が17日間も続き、ついに神形が2、3の石と化し、石笛の音を発したので、人々は奇異に思い山の名を笛吹山と改称して社殿を増築し、この石を奉祀した。これが本神社の創建である」
こうなると、この物体はますます磐座のように思えてくる。
物置の脇の踏み石に弁当を広げ、ネックウォーマーを敷物代わりにして腰を下ろす。
時間が停止しているようなランチタイム。閑かな境内に木洩れ日が心地よい。
3.神田池方面へ下山
下山を始める前に周辺を歩いてみた。石鳥居の前を西に延びる道があるが、これは地図に記載がなく、100mほど入ってみたが落ち葉が深く歩いた形跡もなかったので引き返した。下山は、予定していた石鳥居正面から南へのルートに踏み込もうとしたが、狭い急坂の奥の方に点々とピンクテープが見えている。これに気後れして予定を変更し、往路で見つけた下山道がある広場まで戻る。
この道も地図にはないのだが、位置・方向に問題ないと判断して踏み込む。果たせるかな、しっかりした歩きやすい道が続き、どんどん下り進む。
右側に道が見えて、当初予定していたルートとの合流点だと感じる。さらに良い道が続く。
分岐が現れたがどちらを選べば良いのかわからない。ここまでの路面と似ている左側の道を選ぶ。
途中で右下に道があるように感じるがそのまま進む。さらに右後方に墓地が見えたようなのだが、これにも気を止めずに進んでいく。
ところが急に道幅が狭くなり路面が荒れてきた。
倒木をまたぎ散らばった枝を踏みながらで進んでいたが、次第に進行方向が東へブレているように思われて前進を断念する。
墓地が見えたところまで引き返して墓参りの道をたどる。
ところがその先がまた上り道になっている。手前に左へ急傾斜している道があるので下りる。
ブリキの波板を鉄棒で固定した防獣柵があり、押しても引いてもピクリともしない。仕方なく公言をはばかる方法で乗り越えて、元通りの状態に復元する。
里への道に出て風景は一変したが、自分がどこに居るのかまったくわからない。
小高い場所の畑で作業中の女性に尋ねると、わざわざ下りてきて見通しが良い地点まで案内してくださった。大変お世話になりました。
教わったとおりに進んで下り立ったところは神田池のそばの「分岐3」で、筒ノ宮山の真南だった。
4.笛吹川歌碑公園を経て誕生寺駅へ
この舗装道路は中国自然歩道で、道なりに進めば誕生寺に到着する。田園風景を眺めながらのウォーキングだ。
「分岐4」を通過する。電柱に中国自然歩道の標識が取り付けられている。北は「打穴上(うたのかみ)」で久米郡美咲町の地名、そして南は久米郡久米南町の「誕生寺」である。
神田池「分岐3」からおよそ25分で「分岐5」を通過する。
立て看板から、ここに「神谷(かまだに)サイフォン及び隧道」があったことを知る。水が少ない誕生寺地区の山の上に農業用水を引くために、大正15年、サイフォンの原理を利用した大規模工事を完成させたとのこと。「サイフォンの村」として全国に名を轟かせたという。右の道を上がって行くと「棚田の里」北庄へ出る。
道路は大きく左へカーブして右に小川と橋が見えてきた。このあたりで急に風景が煙ってきて目が痒い。どうやら花粉の飛散状況が予報通りのようだ、ヤバいなぁ。
道端に倒れていた標識を起こすと「笛吹川歌碑公園」とある。これは知らなかった。片目川に架かる「長寿橋」を渡って公園へ入る。誕生寺に隣接した公園は約2千坪の広さで、文学碑や歌碑が沢山並んでいる。園の逆方向から入り、正門方向へと歩いていく。
目に留まったものだけをカメラに収めた。そのいくつかを掲げておこう。
「笛吹の 峰より遠く下りきて 弥陀のこゑとも 清き川の音」 有元淑郎
「子が脱ぎし 法衣のたぐひ たたみつつ われには過ぎし 妻の日おもふ」 漆間三絵子
東屋のあたりに立ち並ぶ歌碑。
「病む母の 部屋に明かりの またたけば 勤めに疲れし 脚を急がす」 行本法子
やるせないなぁ・・・。
片目川から引き込んだ池。
「広辞苑に 栞を入れて 君逝きぬ そのページのみ われは記憶す」 杉本節子
沁みるなあ・・・。
あちこちに歌碑が散在する。
「婉曲に もの言うすべも 身につきて 目立つことなく 人なかに居り」 鈴木市松
フ~ム・・・。
たくさんの歌碑の間を抜けて「開運橋」から笛吹川歌碑公園を離れる。
笛吹川歌碑公園には100基以上の文学碑・歌碑があり、今回は目にしなかったが、正岡子規、犬養木堂、佐藤春夫、斎藤茂吉、石井十次、三好達治など有名人の作品が連なっている。名前を知らない人たちにも心を打たれる歌が多く、「詩歌のまほろば」として親しまれているのが頷ける。あらためてゆっくりと訪れたいと思いながら、隣接した誕生寺を通り過ぎて誕生寺駅に着く。