1.橿原神宮前駅から甘樫丘(あまかしのおか)へ
岡山駅から4時間半かけて橿原神宮前に到着した。駅の東口から出て道路を渡り東へ直進する。
右に見えてくる大きな池は剣池(つるぎいけ)で現在は石川池と呼ばれている。池の向こうにこんもりとした森は孝元天皇陵。日本の第8代天皇と言われ古事記や日本書紀に系譜は存在するが、なしとげた事業や業績についての記録がない、いわゆる欠史八代のひとりである。池畔には遊歩道が整備されていて桜の花は五分咲きか。
遊歩道の突き当たりを左に折れて進むのだが、その手前に紀皇女(きのひめみこ)の歌碑と解説板がある。何とも意味深な歌ですなぁ。
ひとりで寝るときにゃよ ひざっ小僧が寒かろう
おなごを抱くように あたためておやりよ
なんていう、加藤登紀子さんの『ひとり寝の子守唄』を思い出したりして・・・。
次の分岐を右にとって落ち着いた住宅地の道を進む。
間もなく和田池に出る。ここにもゆったりとした遊歩道があり水鳥が泳いでいる。
タムシバとハナモモが咲き競い、傍に子授け地蔵が祀られている。
池の西側を眺めると立派な邸宅があったのでクローズアップ。
ちょうど昼時なので、遊歩道に設置された石のベンチで弁当を開く。薄雲のかかる空が池に写っている。旅人が通り、自転車の若い女性が立ち止まって水鳥に餌を与え、ステッキ姿のお婆ちゃんと挨拶を交わす。ゆるゆると時が過ぎる。昼食が終わると畠中の道を少しだけテンポを上げて歩く。
豊浦寺(とゆらでら)跡だ。推古天皇が建立した日本初のお寺とされている。しかし疫病が流行した際に、仏教崇拝が原因だとして物部氏によって焼き払われる。本来の豊浦寺は地下に埋まっているといわれる。
豊浦寺跡の石碑と万葉の歌碑。
明日香川 行き廻る岡の秋萩は
今日降る雨に 散りか過ぎなむ
とある。「明日香川が流れ回る丘の秋萩は今日の雨で散ってしまうだろうか」と、丹比真人国人(たぢひのまひとくにひと)が詠んだ一首である。
豊浦寺跡に建つ太子山向原寺である。蘇我稲目(そがのいなめ)が仏像を祀ったのが創起という。
解説板によると、593年に推古天皇が豊浦宮で即位してこの地に華麗な飛鳥文化が花開くが、603年に新しく造営された小墾田(おはりだ)の宮へ移り、豊浦宮は蘇我氏に賜ってこれが豊浦寺になったそうである。向原寺庫裏の改修時に発掘調査したところ、7世紀前半に建立された豊浦寺の講堂と推定される礎石建物跡が見つかり、向原寺内で公開されているとのこと。
広がる田園風景の道を行くと、やがて甘樫丘が近くなる。
2.甘樫丘(あまかしのおか)周辺
国営飛鳥歴史公園「甘樫丘」に着いた。休憩舎、展示スペース、トイレなどが整備されていて小休止する。右の写真はそこで配布していたスタンプラリーのマップで、休憩所は①の位置にある。②の甘樫丘展望台まで登って右上(北東)へ抜けることにする。
7世紀前期、甘樫丘には当時の有力者だった蘇我蝦夷・入鹿(そがのえみし・いるか)親子が大邸宅を構えていたと言われている(園内の解説板)。よく手入れされている丘陵の坂道を登って行く。アセビ(馬酔木)が落ちてこぼれるほど花をつけている。
甘樫丘は広い。途中に川原展望台~万葉植物花壇への分岐がある。ここは甘樫丘展望台へと進む。間もなく展望台から声が聞こえてきた。
展望台の標高は148m、二上山から葛城山や金剛山まで見渡すことができる。右の畝傍山から左にかけてたくさんの古墳が見える。
少し視線を右に移すと耳成山、さらに右に移すとちょうど真北に天香久山が見えている。
桜の花は八分咲きといったところか、家族連れやグループが花を楽しんでいる。
長い階段を下りて行く。タチツボスミレが群生している。
螺旋状の階段を下りると志貴皇子(しきのみこ)の万葉歌碑と解説板があった。
うねめの そでふきかへす あすかかぜ
みやこをとほみ いたづらにふく
とあり、藤原遷都後の旧都に佇んで、吹く風の中に美しい采女の幻想を懐いたこころを歌っている。志貴皇子は天智天皇の第七皇子。「石ばしる 垂水の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも」の作者であることを知ると、急に近しく思えてくる。
下り道はこの売店のところで終わる。飛鳥川を渡って交差点に出る。。
3.飛鳥坐(あすかにいます)神社~飛鳥寺
交差点を渡ると石の道標が「飛鳥寺・飛鳥坐神社」へと導く。
落ち着いた食事処のある通りを抜けると、飛鳥坐神社の石鳥居が建つ。扁額には「飛鳥社」とある。長く延びる石段を見上げて、「ここは下から参拝しようか?」とたちまち同意する。
少し戻って左折すると飛鳥寺の駐車場に出る。
飛鳥寺の入口にはどっしりとした「飛鳥大佛」の石碑が立つ。脇に「飛鳥大仏開眼1400年」の表示がある。平成20年(2008年)のことだ。
飛鳥寺は蘇我馬子の発願により創建された日本初の本格的寺院である。当初の飛鳥寺は、中心の五重塔を囲んで中金堂、東金堂、西金堂が建つ一塔三金堂式の大伽藍であることが確認されている。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来である。写真左が本堂、右は思惟殿。
境内には昭和初期の俳人、弓場汰有の句碑 「飛鳥なる 花の夜明を 見そなわす」。
歌碑 「つくつくし つみいためつつ あすかのに ますおほぼとけ みにきつるかも」 は、正岡子規高弟の安江不空が大正12年春に詠んだもの。
本堂で仏像のお姿を拝見する。本尊「飛鳥大仏(釈迦如来坐像)」は重要文化財ながら身近で拝することができる。本尊の右には藤原時代の「阿弥陀如来坐像」。
本尊左には室町時代の「聖徳太子孝養像」が祀られている。中庭や二弦の古代楽器八雲琴などを見て本堂を出る。鐘楼の梵鐘は、昭和18年の戦時供出で失われたのを昭和33年に新鋳したもので、1分20秒の余韻を残す「昭和の名鐘」と謳っている。
4.酒船石(さかふねいし)遺跡~岡寺
飛鳥寺を出て南に進む。趣のある家屋と石を敷き詰めた道を行き、奈良県立万葉文化館を左に見て通り過ぎる。
車道に出ると面白い車がするするとやって来て停まった。「日産ニューモビリティコンセプト」 を使った超小型電気自動車だ。このサイズで二人乗り。明日香村地域振興公社では実証実験を経て2014年10月からレンタルサービスを開始、運転免許を持った二人連れにはいいかもしれない。
天理教教会の手前を左折して、次の目的地「酒船石」を目指す。
竹林の間に延びる階段を登って行く。「酒船石」は登り着いた右にあったのだが、気づかずに左に進んでしまう。
そこには「酒船石遺跡」があった。3mほど盛り土された人口の丘陵に砂岩の切石を積み上げて垣のようなものが造られている。『日本書紀』に「宮の東の山に石を累ねて垣とす」「石の山丘を作る」という記事があり、それに該当する遺跡ではないかと調査が進んでいるとのことである(平成5年から調査)。
階段付近まで引き返すと「酒船石」があった。長さ5.5m、幅2.3m、厚さ約1mで花崗岩で出来ている。円や楕円の窪みが細い溝で結ばれており、酒を絞る槽とも油や薬を作る道具ともいわれているそうである。近くで土管や石樋が見つかっていることから、庭園の施設だという説もあるらしい。
階段を登りまた下りてくる。相棒は膝が痛くなりそうだと声のトーンが下がる。が、ここからしばらくは平地が続くので問題なし。
ここは伝飛鳥板蓋宮跡(いたぶきのみやあと)だ。頭に「伝」が付いているのは伝承により推定されるためである。その後の調査によって建物の構造や位置が明らかになってくる中で、複数の宮跡が時代を変えて重なり合って造られてきたことがわかっている。解説板の隣に大きな石が置かれ、さっき甘樫丘の麓で見た志貴皇子の歌碑と同じ歌が刻まれている。志貴皇子は今でも売れっ子のようだ。
石敷の広場や石組みの大井戸などが復元されていて、史跡公園になっている。
石畳の道を通って鳥居をくぐり、門前町を岡寺へと向かう。
常谷寺を見て岡本寺を過ぎると坂道の傾斜が急にきつくなってくる。国道をくぐるあたりで、若い女性が自転車を停めて軽やかに上って行く。その先の急坂で息が上がって、「まだ先は長いよなぁ」「うんうん」、「岡寺の往復に時間を取られるのはきついよなぁ」「うんうん」ということで、美しい三重宝塔だけを撮して、もうちょっとのところを飛鳥周遊歩道へと右折する。
さらに坂道を進むと、長くて段差が大きい石段が出現。途中で腰を下ろして水分補給をしていると、青年がにっこり笑って駆け上がっていった。石段にへばりついている姿が、よほど可笑しかったに違いない。
5.石舞台古墳~橘寺
石段を登り切るとまた上り坂が続いている。と思いきや、道の向かいに「石舞台古墳」の道標が立っている。
下りて行くと島庄地区が見えるあたりに歌碑がある。
島の宮 上の池なる 放ち鳥
荒びな行きそ 君いまさずとも
草壁皇子が亡くなったことで島の宮の離宮が荒れていくのを見て詠んだと思われる一首。島の宮は島庄地区のあたりと考えられている。そちらへと下り進めば、ハナモモが咲き乱れている。
石舞台古墳の手前の丘は、桜と菜の花の素晴らしいコントラスト。何人もくつろいでいる。
石舞台古墳に到着した。拝観料を収めて高台に上って行く。
中世の農耕地の開発で墳丘の盛土が取りさられてこのような姿になったものとみられている。舞台のように見えることから「石舞台」と呼ばれるようになったらしい。30数個の巨石からなる墓。誰のものか明らかでないが、7世紀初頭の権力者だった蘇我馬子の墓だとする説が有力である。離れた場所に石舞台古墳の復元石棺が展示されている。
もう16時を過ぎている。相棒は足の裏が痛くなったという。2日前に「十三峠・業平ロマンの道」を歩いたばかりなのでムリもあるまい。が、もう一踏ん張りしなくては帰れない。石舞台では何台もテレビカメラが撮影準備をしていたが、外に中継基地が出来ている。夜間にライブ中継をするのだろうか。
橘寺を目指して山際の道を歩く。玉藻橋を渡ると舗装道が続いている。
橘地区に近づき民家が増えてきた。振り返ると彼方に、桜色のベールを装う岡寺の三重宝塔が画のようだ。
橘寺に到着、緩やかな階段を小走りに上がる。拝観料を納めて東門(正門)から入る。橘寺は聖徳太子建立七大寺のひとつとされている。奈良時代に伽藍整備が進み高い格式をもっていたが、室町時代後期に僧兵によって焼き討ちされてほぼ伽藍全体が灰燼と帰した。聖徳太子信仰に支えられて法灯を守り継いで、現在の堂舎は江戸末期に再建されたものである。
鐘楼を見て進むと五重塔の礎石がある。平安時代前期に雷火により焼失している。礎石の一辺は2.7mと大きく直径約1mの穴があいている。
東門からまっすぐに延びる参道を進むと正面に本堂(太子堂)が建つ。本尊として聖徳太子坐像が安置されている。その手前には観音堂。
境内の桜と二面石。二面石は高さ約1mで、左右に善相と悪相が彫られている。心の二面性を表していると言われるが、なぜ造られたかは解っていない。
歌人にして美術史家・書家である会津八一の歌碑
くろごまの あさのあがきに ふませたる をかのくさねと なづさひぞこし
の歌碑がある。放生池の向こうには往生院が美しい。
6.高松塚古墳~近鉄飛鳥駅
橘寺を後にして、これが今回最後にあった歌碑。 「世間之 繁借廬尓 住々而 将至國之 多附不知聞」とある。
世間(よのなか)の 繁き假櫨(かりほ)に 住み住みて
至らむ國の たづき知らずも
「煩わしい仮住まいのような人の世に住み続けて、いつかは行くあの世がどんなものかも分からない」
作者不詳。やや厭世的な感がなくもないが、しっかり心に刻んでおきたい歌でもある。
あ~、くたびれた。舗装道歩きで足が痙攣しそうである。これからひたすら県道209号を歩かなければならない。レンタサイクルに乗った人たちが通り過ぎる。チッと羨ましくなる。
歩け歩けで国営飛鳥歴史公園までやって来た。高松塚古墳はすぐ先だ。
県道を高松塚古墳へと左折する。がすでに17時10分で、資料館や壁画館は閉館している時刻だ。そればかりか、帰りの予定時刻も迫っている。急いで古墳の方に足を運んでUターン。今回はここまでだ。
ひたすら飛鳥駅を目指して17時半近くに到着する。飛鳥の里めぐりは予想以上に盛りだくさんの内容だった。飛鳥の里の余韻をかみしめながら大阪駅に帰着し、エキナカ酒場で賑やかに現実へと舞い戻る。