名 称

かつらぎこどう

地 域

奈良県御所市

距 離

約13km

日 付

2017年3月22日

天 候

晴れ

同行者

相棒と

マップ

このマップは、国土地理院の電子国土Webシステムから提供されたものを使用しています。

コース概要

近鉄御所(ごせ)駅到着 12:04奈良交通バスで風の森バス停到着 12:40頃風の森バス停スタート 12:43
高鴨神社 13:00~13:06高天彦(たかまひこ)神社 14:15~14:20橋本院 14:40~14:52
極楽寺 15:23~15:32住吉神社 15:42中村邸 16:10長柄(ながら)神社 16:16~16:18
一言主(ひとことぬし)神社 16:41~16:50九品寺(くほんじ)17:10~17:17六地蔵石仏 17:36
鴨山口神社 17:45近鉄御所駅帰着 18:15

1.近鉄御所駅から風の森に向かう

 青春18切符でJR天王寺駅へ到着後は、アベノハルカスで早めの昼食を済ませる。大阪阿倍野橋駅から近鉄吉野線急行に乗って尺土駅で近鉄御所線に乗り換え、12時4分に終点の近鉄御所(ごせ)駅に着いた。奈良交通の新宮駅行きバス乗り場「近鉄御所駅」は国道24号沿いにあるので、駅前の国道を渡り左折して20~30m進む。

 定刻より10分遅れでやって来たバスで「風の森」バス停に到着する。風の森峠を越えたあたりに位置していて、風が通り抜ける道である。吹き抜ける風が心地よいと言いたいところだが、今日はちっとばかり寒い。

 近くの交差点を渡って進むと「風の森」の石柱が立っている。

2.高鴨神社~高天彦神社

 風の森から金剛の山並みを正面に見ながら高鴨神社の方へ歩いて行く。

 車道に出て右折するとすぐ、遠くに赤い鳥居が見えてくる。高鴨神社の参道入口に到着した。

 高鴨神社は古代豪族鴨一族の守護神で、祭神は阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)のほか三神をお祀りしている。全国の鴨(加茂)系神社の元宮で、京都の上賀茂・下鴨両社の元社にあたるといわれている。
 石段を踏んで拝殿に参拝する。その奥の、老杉に囲まれて建つ檜皮葺(ひわだぶき)の本殿は室町時代の建築で、国の重要文化財に指定されているが、写真撮影はできない。

 広い境内と美しい庭があるが、まだスタートしたばかりなので早々と次を目指す。神社前には「葛城の道ナビゲーションシステム」というカラータイル貼りの道標が立ち、隣り合って雰囲気の良い蕎麦の店がある。

 車道に沿って北上する。左手の小高い場所にカフェテラスが建っている。しだいに上り坂になる道端でお地蔵さんと出会う。

 今回も「近鉄てくてくまっぷ・葛城の道コース」を持ってきた。今、それに記載されている「ここから山に向かって立つと"山こもれる"を実感!」という場所に立っている。高架の県道30号・御所香芝線(ごせかしばせん)の向こうに山が迫っている。道路の勾配がゆるくなってきた。

 大和盆地が一望できるあたりに差しかかる。中央に畝傍山が可愛く見えている。そして、またお地蔵さんとの出会い。

 菩提寺への道標だ。ここから西に上り詰めた見晴らしの良い場所にあり、平安末期につくられた十一面観音像が祀られている。今回は時間の都合でパスする。直進すると「高天彦神社」への道標があり左折する。

 道標にしたがって高天彦神社を目指して真西に上って行く。何台もの車とすれ違いながら傾斜のきつい舗装道を進む。

 木柱にしめ縄を渡した鳥居が現れて、ここから高天彦神社の参道が始まる。

 参道に入った先は山歩きの世界だ。杉木立の中に急坂がありジグザグの木段が続いている。

 急な登りをこなして相棒はよくがんばっている。傾斜がなくなると右手に森林セラピー基地のような一角が現れた。丸太の椅子やテーブルが並んでいて、森林浴にはもってこいの感じだ。

ルビーのような真っ赤なのはアオキの実。隣り合って弾けそうなアオキの花序があり、間もなく開花しそうだ。

 杉木立の道は平坦になり、里のような風景が広がっている。動物避けの柵を開いて通る。

 「鶯宿梅(おうしゅくばい)」だ。その昔、高天寺で修行をしていた小僧が若くして亡くなり その師が嘆き悲しんでいたところ、梅の木に鶯が来て、ホーホケキョではなく「初春のあした毎には来れども あはでぞかえる もとのすみかに」と鳴いたそうだ。それ以来、この梅を鶯宿梅と呼ぶようになったと伝えられる。折しも満開の花をつけている。小さな御堂は大師堂である。

 杉の巨木に囲まれた参道を進んで境内に至る。高天彦神社(たかまひこじんじゃ)は、最高の社格とされる名神大社に列せられる古社。祭神は高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)、別名高天彦神で、大和朝廷に先行して葛城王朝を築いた葛城一族の祖神である。社殿後方の白雲峯(694m)、別名高天山をご神体とするそうである。

 書道家中野南風氏の書の石碑が建つ。「昭和61年5月、大和の国葛上郡高天彦神社に詣ず。 金剛山の中腹 小盆地を抱き 僅かに十数戸の民家を置く。正に蓬莱仙境の如し。この地に社あり。森厳壮厳霊気地に満ち森羅万象総て神霊を帯ぶかに見ゆ。この地に正に天孫降臨の聖地なり。南風識す」とある。

 これは後で知ったのだが、このあたりから「郵便道コース」と呼ばれる金剛山への登山ルートがあるそうだ。奈良県側からのハイカーにはよく利用されているようだ。いちど歩いてみたいものだ。
 それから、蜘蛛窟を見ることができなかったのは残念だ。これは場所がわかりにくいことで有名らしい。神話によれば、神武天皇が大和を平定すべく東征をしたとき、先住者が神武天皇の皇軍に従わずに抵抗し敗れたそうである。敗者の先住の人々を蔑称で「土蜘蛛」と呼んだそうで、天孫降臨伝説や英雄神話が残る輝かしいこの地のもう一面を窺わせるものでもある。

3.橋本院~極楽寺

 橋本院までは約600mばかり、ふたたび田園風景の中を行く。200m先から橋本院参道が始まる。

 橋本院の山門から少し山側に上った場所に「史跡高天原」の石碑が建つ。この一帯の高原台地が神話の里「高天原(たかまがはら)」である。神話では天津神(あまつかみ)が住んでいた場所であり、宮崎県の高千穂と共に天孫降臨神話の地である。何とも高天原伝承地にふさわしい風情が漂っているが、石碑が立っている場所は駐車場であり、立派な公衆トイレが建っている。

 ここには万葉歌碑が設置されている。
     「葛城の 高間(たかま)の草野(かやの) 早知りて
          標刺(しめさ)さましを 今そ悔しき」
 向かって右手の山は葛城山、正面の山は白雲嶽、その後ろに金剛山山頂が見える、と案内板にあるのだが、今ひとつはっきりわからない

 橋本院に向かい、山門をくぐる。高天寺は奈良時代に元正天皇の勅により行基が開いたとされる格式の高い寺院で、一時は大寺院として勢力を誇っていた。しかし、南北朝時代になると戦乱で焼き払われ、なんとか一院だけ焼け残った。この院がちょうど池の橋の横にあったことから「橋本院」と呼ばれるようになったということである。

 橋本院の護摩堂と十一面観世音菩薩像を祀る本堂(観音堂)。

 鐘楼を拝して境内の外を巡る。

 ここから先は「瞑想の庭」を横切って進む。イノシシ進入防止の柵を開いて庭に入る。「静寂に包まれた境内のたたずまいを感じ取っていただければ」という院主の心配りが身にしみる。ベンチの脇にミツマタが満開だ。

 一歩一歩を踏み出すのが楽しくなる道、感謝したくなる道です。一面の梢が色づいている。

 奥まった位置に春が舞っている。思わず足を踏み入れて近づくとカンザクラが満開だ。時を忘れるひととき。

 まだロウバイが花をつけている。香りこそ薄れているが時が凝縮しているようだ。早春を告げるサンシュユ(山茱萸)はあたりを黄色のベールで包む。

 桜の開花と同期するタラの芽はまだ固いようだ。振り返ると葛木の山々を背景に、木も花も草も寺も、春の訪れを祝福しているようだ。

 柵を開閉してふたたび山道に踏み入る。

 ここから約1.2kmの道を極楽寺へ向かって下りて行く。逆方向から登るとさぞかし大変だろうと思われる急坂が続く。

 かなり下りてきたあたりで細い足場を渡り、砂防ダムの上をバランスを崩さないように進む。

 急に視界が開けて田園地帯に下り立った。遠くに雪を頂く大峰山脈が見えている。

 吐田(はんだ)極楽寺の参道に着いて長い坂を登って行く。

 仏頭山極楽寺は、天暦5年(951年)に興福寺で名僧の誉れ高かった一和僧都(いちわそうず)が開いた寺と伝えられている。寺の縁起によると、金剛山の付近に光が放たれているところを見つけた一和僧都が地中から仏頭を掘り出して、これを本尊に草庵を結び、その後仏の来迎を受け大往生したため「極楽寺」となったと言われている。鐘楼門の古木の梅に、いま可憐な花が開いている。

 本堂と釣鐘がユニークな山門。戦国時代に焼かれたが寺宝の天得如来像図とこの鐘楼門は焼失を免れ、後の再興のきっかけになったという。

4.住吉神社~名柄地区~一言主神社

 県道30号を北進する。このあたりは柿の木が多い。ややあって県道から右に踏み込む。

 しばらく下ると住吉神社だ。大阪の住吉大社の分霊を勧請して、白鳳年間(7世紀)にお祭りしたという由緒ある古社である。

 16時が近くなり空が暗くなってきた。左手に雄大な山々を見ながら長柄(ながら)神社へと道を急ぐ。

 また出会ったお地蔵さん。南北の旧高野街道と東西の水越街道の交差点として開けた一帯には、古い民家が軒を連ねていて、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。

 中村邸は御所市内でも最も古い建築物で、慶長年間(西暦1600年頃)に立てられたものと推定されている。江戸初期の家の造りを今に伝えるこの建築物は全国的に見ても歴史的価値が高いもので、国の文化財にも指定されている。

 長柄神社は、天武天皇が境内で流鏑馬(やぶさめ)をしたと日本書紀に記されている由緒ある神社である。

 引き続き古い民家を見ながら進むと、懐かしい「塩」の看板が軒に吊されていた。

 醤油蔵を行き過ぎたところ、左手に葛城一言主神社の石鳥居が建っている。

 杉並木の参道を通って石段を登る。

 古事記には、神が葛城山で狩をしている雄略天皇に名を問われ、「吾は悪事も一言、善事も一言、言ひ離つ神、葛城の一言主大神ぞ」と申したとあるそうだ。日本霊異記には、役行者に葛城山と吉野金峰山を結ぶ岩橋づくりを命じられたが、夜しか働かず、結局完成しなかったという逸話もある神。願いをひと言だけ聞いてくれる「いちごんさん」として親しまれている社に参拝して、一言だけ願いをこめる。

 乳銀杏と呼ばれる御神木のイチョウ。高さ20m、樹齢1200年の大イチョウの幹の途中から乳房のようなものがたくさん出ている。境内には万葉歌碑がある。
       「葛木の其津彦真弓 荒木にも
           憑めや君がわが名告りけむ」
 ふ~む、よく分からん。難解にして意味深な歌ではあります。

 境内には、さらに樹齢は650年のムクロジ(無患子)の巨木がある。ここにも土蜘蛛一族が封じられた蜘蛛塚があったはずなのだが、見ることができなくて残念。次の九品寺へと急ぐ。

5.九品寺(くほんじ)~六地蔵石仏~近鉄御所駅

 一言主神社から山に沿った道を行く。ここでもカラータイルの道標が先を示す。

 再びのどかな田園風景を行く。

 杉木立の一角に「綏靖(すいぜい)天皇葛城高丘宮址」と刻まれた石柱が建つ。綏靖天皇は神武に次ぐ第2代の天皇で、その存在については疑問視されているそうだ。細かいことはさておき、この地が古代の天皇家と深く関わっていたことは確かなのだろう。すぐ先に同様の石碑があり、解説板に「山背河の歌」が載っているのだが、これは省略。

 またまた動物避けの柵を開いて進むと、東屋の休憩所があった。その先からは、大和三山を望むことができる。左から耳成山、畝傍山、そして右遠くに天香久山。

 九品寺山門に到着した。奈良時代の僧、行基が開基した寺で、本尊の阿弥陀如来像は国の重要文化財に指定されている。

 境内や裏山には「千体石仏」と称される多数の石仏がある。裏山は時間の都合で見られなかったが、これは石段左側の石仏。そして本堂に参拝。

 境内には十三重の塔と柔和な表情の僧の像。

 地蔵菩薩を安置した地蔵堂と鐘楼を見て山門へ向かうと、山門の前には地蔵尊が並んでいた。

 九品寺を後にして駒形大重神社の方へ向かう。途中でまたお地蔵様に対面。

 駒形大重神社の鳥居にたどり着くが、ここは通り過ぎて「六地蔵」の道標が示す畑中へ下りて行く。

 畑の脇の細道を下り進み、道なりにどんどん進む。

 このあたりに六地蔵があるはずと見回すが見当たらない。と、何と、交差点近くの住宅地の真ん中にあった。この巨石は室町時代の土石流で流れ着いたもので、村人が仏教に救いを求めて六地蔵を彫り込んだものと伝えられている。夕方の曇り空で石仏の姿がぼやけているが、確かに六体が刻まれている。裏には水仙が花をつけていた。

 暮れなずむ葛木の山々。ゆっくりと穏やかな一日が終わろうとしている。

 最後に立ち寄ったのは鴨山口神社。大山祗神(おおやますみのかみ)ほか三神を祀っていて、大日霊命(おおひるめのみこと)座像と御霊大神(みれいおおかみ)座像の二神像は、一木造り彩色の珍しいもので重要文化財に指定されているとか。

 駅に向かう途中の三叉路は葛城山ロープウェイまで2.4kmの地点。かつて登った大和葛城山が懐かしく思い出される。元気な相棒の姿にシャッターを落として、近鉄御所駅に帰着した。