1.登山口まで
出発に当たっての注意事項は前述のとおりだが、特にイノシシの罠については、木や草に目印の札や瓶・草の束などを吊しているので絶対に近づかないようにと言われてゾッとした。今まで、具体的な罠の目印について聞いたことがなく無頓着に歩き回っていたからだ。おおっ怖! おやっ、スタッフが鋸を準備している。これは本格的なヤブコギになりそうだ。
瀬戸駅を後にして車両の通行量が多い県道96号を西へ向かう。瀬戸橋を渡って、まだ花を残す桜を見ながら前進。
前回は、ここを左折して環太平洋大学のソフトボールグラウンドの先から山に入った。そして、大廻山の北側ルートでヤブを漕ぎ、道のない場所をよじ登ったのだった。今日は先導者まかせで後に続く。馬屋方面への251号標識を見て直進する。
右手の丘に「IPU」の刈り込みと環太平洋大学のキャンパスが見えてきた。元気な学生たちの姿が増える。
次の横断歩道を左へ渡る。瀬戸駅から約3kmだが、進行の列が伸びていて最後尾の到着を待つ。駅からの経過時間は45分でまずまずだ。
集落の細道を整然と進む。間もなく「大廻小廻山城跡・一の木戸」の道標と出合う。約0.6km、徒歩約15分とある。初めて歩く道である。ここが大廻小廻山の登山口と考えてよさそうだ。
2.大廻山山頂から大廻小廻山城分岐へ
舗装道から山道に変わった。2~3分進むと、左手に「三十番神堂」が建っている。
落葉の道を行くと、オヤッ、白いプレートが木枝に結ばれている。これがイノシシ罠の目印だ。プレートには携帯電話の番号が記入されている。
次は薄茶色のプレートで、先と同様に携帯電話番号が見える。その先には、ビニール袋にくるまれたペットボトル(赤丸の中)が竹に吊されている。
そして、ビニール袋に詰められた草のようなものもある。その下は一見すると落葉だけだが、くくり罠が仕掛けられているはずである。くわばらくわばら。
ほぼ最後尾を歩いているので、脇見をしなければ罠の心配はない。右手に池が見えてきた。
ウマノアシガタが群生しているので注意深く近づいてカメラに収める。根っ子近くの葉が馬の蹄に似ているのが名前の由来と言うが、そうかなぁ。別名キンポウゲ(金鳳花)と呼ばれるが、地方によってはウマゼリと、どこまでも馬を伴うらしい。緩やかな谷筋の道を行く。
ここで、大廻小廻山城についてのレクチャーを受ける。古代山城は、663年の白村江の戦いに大敗したことで、急遽西日本の防衛用に築城されたものである。同盟を結んでいた百済国からの亡命者に築城させたことから朝鮮式の山城である。大廻小廻山城も前回の例会で出かけた鬼ノ城と同様に、築城の詳細が史書に記録されてないことから、分類上は「神籠石(こうごいし)系山城」とされている。
解説板にあるように、城は全長3.2kmにわたる土塁(外郭)で築かれている。現在地の「一の木戸」と呼ばれる石塁は、西側に三つある石塁のひとつで、防護壁と排水施設を兼ねた水門である。説明にある「ホルンフェルス」という石材は、「石灰岩以外の岩石が接触変成作用を受けて変化してできたもの。泥岩から変化したものは黒っぽい色で硬い。岡山県内では全域によく見られる」ものだそうだ(倉敷市立自然史博物館のページから)。
写真・左が一の木戸で、三つのうちで最も大きく保存状態が良い。完全な石積み構築の石塁で幅約6m、高さは5~6m。右は、一の木戸の左手近くにある列石である。
傾斜がきつくなってきた。列の間が詰まってなかなか進まない。時折、山桜の花吹雪が列に降り注ぐ。
進まないはずだ。最前線は枝や根っ子をつかみ、四つん這いになったりしながら急斜面と格闘中。皆とても元気で逞しい。わずか数十mの進行に10分かかったが、それ以上に長く感じられた。
左手に見え隠れする廃屋のあたりから、ヤブの中に入り込む。
ヤブをかき分けながら着いたのが大廻山の山頂。ここ2回目のレクチャーでは、歴史的な事柄と共に地理的な特徴などを聴く。北側には赤磐市南西部が広がり、東高槻古墳群や両宮山古墳、牟佐大塚古墳、備前国分寺などを望めるのだが、雑木に遮られて眺望がないのは残念。
一帯は国有林であり、「山」と刻んだ境界石が設置されている。
南へ下りて行く。リキュウバイ(利休梅)の白が美しい。
草むらにはハナダイコン(花大根)の紫の花。突き当たりに波板トタンの塀が現れた。
ここはマップの「大廻小廻山城分岐」で、いくつかの山道が舗装道路と交差している。私有地が多くあちこちに「立入禁止」の立て札。「国指定・大廻小廻山城跡」の解説板が建っている。
3.常楽寺へ立ち寄り、開拓農地跡から小廻山へ
昼時なので昼食場所を求めて常楽寺へ下りる。歩き始めると左側に石積みがある。見落としてしまいそうなのだが、これも初期に古代山城であることを確認する手がかりとなったもののようである。
常楽寺への緩い下り坂からの眺望は抜群だ。立派な本堂を見ながら境内南側へと下りる。
境内の一部を拝借して弁当を広げる。緑が豊かで椿が真っ赤な花をつけている。
昼食後は再び「大廻小廻山城分岐」まで戻り、そのまま直進する。
びっしりと白い花をつけた、まるで花のかたまりのような大木に出合う。帰宅後に花の部分を拡大して調べるとスモモの花であることがわかった。野生の大きなスモモの木だったのだ。
舗装道路を歩いて行くとやがて山道になる。そばにヤマブキ(山吹)が咲いている。これはクレヨンの「やまぶきいろ」ではなく黄金色だ。少し進んだころ、70~80cmのヘビが足もとを横切る。「シマヘビだ!」と誰かが叫ぶと、「違う!ヤマカガシだ、近づいたらいかん」。この声で蛇の移動を待つ。マムシほど攻撃的ではないと言われているが、毒蛇なので要注意。
細道を歩いた先は枯れた雑草に覆われた広場で、かつての開拓地跡である。ここでは、戦後間もなく「土地の農業上の利用増進」という国家政策によって小廻山の山頂一帯が開拓事業地となったが撤退者相次いだこと、また一時期は列島改造論に乗じた開発計画などが持ち上がったこと、そのような状況の中で進められた調査の経過などを聴くことになった。
大廻小廻山城跡を最初に古代山城ではないかと見立てたところから、幾多の困難を伴いながらも調査と踏査を重ね、やがて発掘調査でそれを立証する過程にはロマンを感じた次第。これらのことは、前書きに記した『大廻小廻山城跡発掘調査報告』に詳しい。
3回目のレクチャーを終えてスモモの木まで戻る。
その先を右側の踏み跡へとどんどん踏み込んで行く。
途中で北に大廻山が見える。足に絡まる笹に注意しながら登る。
ヤブをひとくぐりすると小廻山山頂に到着した。
小廻山には三角点が設置されている。ここも雑木で展望はきかないが最高地点であり、開けていれば遙かに小豆島や五剣山、南西には百間川河口から児島が見渡せるはずと言う。
三角点付近に八大龍王の碑があり「享保八癸卯(みずのとう)」と刻まれている。近世においてここで雨乞いが行われた名残だろうか。
小廻山から北へ向かうと、一角に野イチゴの花が密生している。道端に猟銃(散弾銃)の薬莢が二つ。狩猟解禁期間には歩きたくない山だ。
4.常楽寺石積遺構を観察して下山へ
またまた「大廻小廻山城分岐」へ戻って常楽寺側へ下りて行く。南には山陽新幹線と岡山東区の山々を一望できる。
煙っているが、南西には金甲山・怒塚山から瀬戸内海まで見える。写真右は少しズームインしたもの。
常楽寺への下り坂を通り越して、カーブミラーの脇から細道へ入って行く。
着いたのは常楽寺石積遺構群のひとつ。木や雑草で見にくいが小さな石を積み上げているのが判る。この遺構は常楽寺の経塚とされているものである。
「古代の山城と山上寺院」に関わる一連の視察を終えて下山にかかる。
これが最後に確認した常楽寺の遺構で、石積みの祠のような穴がある。ここから室町時代の備前焼の骨壺が出土したらしい。次の三叉路を谷尻方面へ下りて行く。
右に池を見て下る。
間もなく武部神社の石鳥居が現れて谷尻集落を通過する。
ここからの県道220号の歩きがキツい。車に気をつけながら浮田橋を渡る。
住宅街を抜けて無事に瀬戸駅へ帰着する。盛りだくさんの内容に頭が整理できない状態でたどり着いた。前回の独り歩きは興味半分の山歩きだったが、これほど歴史に彩られた山とは知らなかった。楽しくもたくさん宿題を抱える山行になった。