名 称

はこねきゅうかいどう

地 域

神奈川県足柄下郡箱根町

距 離

約7.0km

日 付

2016年11月7日

天 候

曇り時々晴れ

同行者

相棒と

マップ

〔須雲側バス停~畑宿~猿滑坂〕

  

〔猿滑坂~元箱根~箱根関所跡〕

  

このマップは、国土地理院の電子国土Webシステムから提供されたものを使用しています。

コース概要

須雲川バス停 9:12鎖雲寺 9:13~9:16須雲川探勝歩道入口 9:24丸太橋 9:39
割石坂(わりいしざか)9:50大澤坂 10:13畑宿バス停 10:37畑宿一里塚 10:48
見晴茶屋 11:26猿滑坂(さるすべりざか)11:57甘酒茶屋(昼食)12:19~13:02
権現坂 13:48元箱根港バス停 14:06箱根関所 14:31

 7時5分の電車で三島駅から小田原駅へ移動し、箱根登山鉄道の登山電車に乗る。約15分で箱根湯本駅に着いて弁当を調達し、やや離れたバス乗り場へ向かう。長蛇の列に驚いたがそれは隣の桃源台線で、どうやら仙石原のススキ草原が大人気のようだ。箱根旧街道線には我ら二人の他に土地の人らしき二人だけ。上畑宿行きのバスは予定時刻通りに発車する。

1.須雲川バス停~割石坂(わりいしざか)~畑宿

 箱根湯本からは10分少々で須雲川に到着。所要時間はわずかだがバスは急坂をガンガン登ったのであり、もし歩いていたらどれだけ時間が掛かっていたことか。発車早々に他の乗客は降りてしまい、貸し切り状態で到着しバスの進行方向へ進んで行く。

 すぐに「霊泉山 鎮雲禅寺」の石碑が建ち、霊泉の瀧が落ちている。案内板によると、鎖雲寺は、江戸の初めに当時早雲寺の山内にあった一庵を引いて建立された禅寺で、寺内には「箱根霊験記」で有名な勝五郎と初花の墓があるそうだ。石碑の寺名は「鎮」と刻まれているが、案内板やマップなどは「鎖」になっている。境内を通り抜け初花堂に合掌して進む。

 間もなく須雲川探勝歩道入口に着く。ここから舗装道を離れて古い道を歩く。入口に「女轉シ坂」の碑がある。この女転ばし坂の由来を調べると、周辺に解説板があって「馬に乗った女性がこの坂で落馬して死んだことによる」としているらしいのだが、その解説板は見落としてしまった。この坂自体はさほど急には思われず、あるいは地形が変化してしまったのかもしれない。

 橋を渡り階段の坂道を行く。変わった足場の道も石ころだらけの道もあるが、とても整備が行き届いている。

 川の増水時には橋を渡らないようにとの注意書きがあり、発電所手前のフェンスを右折して畑宿の方向へ進む。

 水量の心配はなく、しっかりした丸木橋が架かっている。相棒は自分が渡りきるまで足をかけようとしない。橋の上から発電所がよく見える。

 渡り終えると飛び石を踏んでもうひとつ渡るのだが、その前に相棒の到着を待つ。相棒はヤジロベエのように両手でバランスをとりながら、にじりにじりとやって来る。もうひとつ渡ってまた待って、今度は階段だ。

 階段を上がると道標があり、歩きやすい道が延びている。左下に箱根大天狗山神社が見え隠れしている。

 階段を下りると発電所前バス停に出た。車道を軽装の二人連れが歩いている。歩道部分が細いので危なっかしい感じだ。すぐ先の割石坂(わりいしざか)へ向かう。

 ここから畑宿まではちょうど1km。平地なら15分もかからないが、この石畳はそうはいかない。割石坂の由来は「曽我五郎が富士の裾野に仇討ちに向かう時、腰の刀の切れ味を試そうと路傍の巨石を真っ二つに切り割ったところから」と案内板にある。

 案内板が立ち、前後の新しい石畳は江戸時代のものを、明治・大正時代に元の須雲川小学校の通学路として補修したものであると説明されている。江戸時代の石畳がそのまま残されている部分には標識が立っている。やや並びが不規則で表面の凹凸が粗いが、むしろ逆に滑りにくいので歩きやすく感じる。

 フェンスにガードされて川を渡ると「接待茶屋跡」の碑。箱根八里を往還する旅人や馬に湯茶や飼葉(かいば)を施し、大変喜ばれていたとある。

 また舗装道に出て畑宿まで700mに近づいた。白い清楚な花が咲いている。葉に艶があり美しいのだが何かは特定できない。

 舗装道を横切って、「国指定史跡・箱根旧街道」の標柱傍を左の谷側へと下りて行く。石ころの急坂だ。

 板橋で渓流をまたぐ。これは大沢川らしい。すぐに大澤坂が始まる。案内板によると、当時の石畳が一番よく残っている坂とのこと。

 苔が生えた部分は滑りやすいのでゆっくり足を運ぶ。このあたりの道には斜めの排水路が作られている。石畳の上を流れてきた雨水を石畳の外へ流すための工夫である。

 今日出会った二つ目の花。よく分からないが、これってエビネかな?「史跡箱根旧街道」の石柱が立ち、石段の向こうに建物が見えてきた。畑宿に着いたしたらしい。

2.畑宿~七曲り~甘酒茶屋

 畑宿バス停に到着だ。このあたりには寄木細工の工房が多い。伝統工芸の箱根細工が生まれ育ったのが畑宿で、江戸時代には箱根旧街道の間(あい)ノ村として栄え、たくさんの茶屋が並び、名物のそば、鮎の塩焼き、箱根細工が旅人の足をとめたそうである。

 小休止して再び箱根旧街道に入るとすぐに、畑宿一里塚がある。日本橋から数えて二十三里目の塚である。

 その先の傾斜が急な石畳はきつい。一歩ずつ足元を確認しながら、路肩の土の部分を利用してバランスをとりながら登って行く。反対方向からやってきた二人連れはなかなか前進しない。この石畳の下りは怖いだろう。

 石畳の橋で車道を一またぎする。

 西海子坂(さいかちさか)の標石、いよいよ七曲り坂が始まるぞ。この一帯の石畳は延宝8年(1680年)に江戸幕府が改修したもので、それ以前の道は雨や雪の後は大変な悪路になり、旅人は膝まで没する泥道を歩かねばならなかったという(案内板より)。よく整備された西海子坂を楽にこなして車道へ上がって行く。

 オオッ、蛇のような七曲りの標識だ。黄色プレートに「これより1.2kmの間 七曲り」とある。これから先は階段でクネクネ道路をショートカットするようだ。

 階段を登り切ると「橿(かし)の木坂」バス停があった。そしてまた階段が見える。

 階段の手前に「橿木坂(かしのきざか)」の石碑があり、急な階段を登るとまた階段が連続する。この橿木坂、『東海道名所日記』には、けわしきこと、道中一番の難所なり。おとこ、かくぞよみける。「橿の木の さかをこゆれば くるしくて どんぐりほどの 涙こぼる」と書かれているそうである(案内板より)。

 車道ショートカットの後はまた次の階段が待っている。

 立ち寄りを楽しみにしている甘酒茶屋まで1,300mの標識。壊れかけた「見晴茶屋」の看板が掛かっているが、見晴らし茶屋への急階段を見て、ここはパス。

 「箱根の雲助」についての解説板が設置されている。一般的に雲助というと、わるさをするといった印象が強いけれど、実はそうではなく小田原の地で働く人足ということである。登録制で「一、力が非常に強いこと。 二、荷物の荷造りが優れていること。 三、歌をうたうのが上手であること」が条件で、荷造りについては一見してだれが造ったものかがわかり、箱根で荷造りしたものは京都まで決して壊れなかったという。実は誰にでもすぐなれるという職業ではなく、箱根の各地に住んで通行や温泉遊覧の助けをしていたそうである。
 なるほど、と感心していたら甘酒橋が現れ、ここを渡ると元箱根まで2.7kmの標識。

 いかにも滑りそうな名前の猿滑坂(さるすべりざか)は、すぐに終わって車道へと登る。

 「猿すべり坂」バス停に出会うとまた次の階段。

 平坦な道を一気に進んで再び車道に下りると、甘酒茶屋への最後の坂、追込坂(おいこみざか)になった。

 緩い坂を登ると平坦な道になる。

 その先を左折すると車道に出て「甘酒茶屋」バス停に着く。無料の箱根旧街道休憩所があり、資料やパネルが展示されている。

 隣接した甘酒茶屋はにぎやかだ。まずは外のテーブルで昼食をとることにした。美味しい季節弁当に舌鼓を打ったが、気温が低いのに加えて風があり震えながらパクついた。

 茅葺き屋根の甘酒茶屋に入ると、暗い! 当時の家屋の明るさに合わせているのだろうが、落ち着くと心地良い明るさだ。さっそく甘酒を注文して、巨木のテーブルで格別の一杯をいただく。旨い! 暖まる!

3.権現坂~元箱根・芦ノ湖

 昼食と甘酒で気力・体力ともに充実。石畳を軽々歩き、木の根道もこなし、階段を進むと於玉坂(おたまざか)に着いた。

 石が転がるトンネルのような道を進み、車道を渡ると元箱根まで40分の標識。

 元箱根への最後の上り坂、白水坂に着いた。この坂はとても長く傾斜もきつい。やはり滑りやすくて相棒はより慎重になる。長くて遅くて時間が掛かる。

 ようやくピークになると箱根馬子唄の碑がある。「箱根八里は馬でも越すが こすに越されぬ大井川」と刻まれている。このあたりが今回のコースの最高地点と思われる。

 小高い丘に登ると箱根駒ヶ岳(標高1,356m)が見える。山頂までロープウェイで上れて芦ノ湖や富士山の眺望を楽しめる山である。少しズームで寄ってみる。

 高台から見える近辺の居住地。近くには二子山が見える。写真はその一方だけで、上二子山と下二子山がペアで並んでいるのは面白い。

 岩でデコボコの下り坂を行く。元箱根まで15分の標識が立つ。

 車道を横切ってさらに続くデコボコ道を下りて行く。次のカーブも直進して坂を下る。

 最後の下り坂は権現坂。最後の最後まで滑らぬように、相棒がギッチラぎっちら下りてくる。

 また箱根旧街道の石柱があり、杉並木歩道橋にたどり着く。

 歩道橋を下り、道標を芦ノ湖方面へ進む。

 左側に「天下の険」の碑がある。直進して左折すると成川美術館の前に出た。

 元箱根港バス停に到着する。朱色の大鳥居の向こうに箱根駒ヶ岳が見える。

 遊覧船が行き交う芦ノ湖に着いた。美しい湖面に箱根神社の赤鳥居、背景の富士山は今回の旅のフィナーレを飾る風景にふさわしい。

4.箱根関所を往復して帰途に

 芦ノ湖湖畔を南へたどり、舗装道脇の敷石の道を進むと右側に細い道路が現れて踏み込む。

 右側は芦ノ湖で、手漕ぎやエンジン着きのボートのたまり場になっている。少し進むと短い板敷きの道路に変わり、その先は土のような風合いに舗装された美しい杉並木が続く。

 やがて箱根関所が見えてきた。何回もの発掘調査に基づいて2007年に復元された関所に入ってみる。

 復元された部屋の内部。これは足軽番所の休憩所と呼ばれる部屋で、無彩色の人形で当時の状況を再現している。階段へ移動して船の通行を見張る小屋「遠見番所」へと登って行く。

 ここからも芦ノ湖越しの富士山を眺めることができる。ゆっくりと進む箱根海賊船が長い軌跡を描いている。身を乗り出して、芦ノ湖の紅葉風景をズームでピックアップ。

 高台からの風景を満喫して階段を下り、関所の南端まで見学してUターン、元箱根港へと引き返す。

 箱根関所北の駐車場に鳥居忱(とりいまこと)作詞の『箱根八里』の歌碑がある。作曲は瀧廉太郎で、よく知られた曲である。歌全体は二番まであるが、歌碑には一番だけが原文とはやや異なる文字使いで刻まれている。以下に元の詞の全文を掲げておこう。
           『箱根八里』
    一、 箱根の山は、天下の嶮
       函谷關(かんこくかん)も ものならず
       萬丈(ばんじょう)の山、千仞(せんじん)の谷
       前に聳(そび)へ、後方(しりへ)にささふ
       雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
       昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
       羊腸の小徑は苔滑らか
       一夫關に当たるや、萬夫も開くなし
       天下に旅する剛氣の武士(もののふ)
       大刀腰に足駄がけ
       八里の碞根(いはね)踏みならす、
       かくこそありしか、往時の武士

    二、 箱根の山は天下の岨
       蜀の桟道數ならず
       萬丈の山、千仞の谷
       前に聳へ、後方にささふ
       雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
       昼猶闇(ひるなほくら)き杉の並木
       羊腸の小徑は、苔滑らか
       一夫關にあたるや、萬夫も開くなし
       山野に狩りする剛毅のますらを
       猟銃肩に草鞋(わらぢ)がけ
       八里の碞根踏み破る
       かくこそあるなれ、当時のますらを

 三日間の富士見の旅はこれで終わり。懐かしい曲を口ずさみながら、芦ノ湖湖畔を元箱根港バス停へと向かう。